Bergson, Essai
2005/08/29 (月) 01:52カテゴリー: 読書会
「怒り」を怒りの観念と情動の強さ(さらに情動の強さは筋肉収縮の量的大きさに還元される)で説明する三項関係、これがその前段で述べられた注意と同じ構造を持っているかどうかが問題になった。はっきりと注意の努力と激しい情動とは本質的に同じだとされていながらも、一見注意の方には注意の観念なるものが存しないように見える。しかしベルクソンはこう書いている。
たしかに意志的注意*1のなかには純粋に心的な要因が常に含まれる(entrera)*2だろう…私たちは〔注意という〕心の緊張の増加、非物質的な努力の増大を意識していると再び信じてしまう。そのような印象を分析してみるならば、筋肉収縮の感情…しか見いだせないだろう。(Essai, PUF, Quadrige, p.21)
以上から理解されるとおり、ここでもベルクソンは注意の観念を「純粋に心的な要因(省略した箇所で「関係のない観念を意志によって排除すること」と言われる)」とし、他方に一見心的に思える量的増大を立てて対立させている。これでもって注意全体を説明していると考えれば怒りなどとの整合性は保たれるのではないか。*3
*1:岩波文庫の訳では「意志的力」となっているが、原語はattention volontaireである。混乱を招く訳ではないか。
*2:同訳では「入り込む」と訳されている。
*3:しかしここの意見はベルクソン本来の意見、即ち量化し得ないものを量化している精神物理学に対する批判とは逆のことを言っている。ここはベルクソンがフェヒナーらの精神物理学者の議論をこう解釈している部分だろう。[8/31追加]




