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映画

2005/08/29 (月) 02:55
カテゴリー: 未分類

『天井桟敷の人々』Les enfants du paradis*1

ナチス占領下のフランス、傀儡政権のヴィシー政権下で製作された映画。マルセル・カルネ、ジャック・プレヴェールの黄金コンビが贈る、「詩的レアリスム」の最高傑作…らしい。映画の技術・技法・映画史等々については全く知らないので受け売り。以下はレビューではなく自分のための覚書。もちろんネタバレなのでまだ見てない人は読まないほうが吉

役者の演技はさることながら、ストーリーがよい*2。保守的な恋愛観、家庭的幸福の観念(ナタリー)が一方にあり、他方で恋愛による忘我的激情(ガランス、ラスネール、フレデリック、モントレー伯爵)が対置されている。それを横軸にとれば、縦軸には大衆‐貴族という階級の対立(ただし表面上力の均衡は存在しない)を取ることができ、貴族側にはモントレー伯爵、大衆側にそれ以外の主要人物(そして「天井桟敷の人々」も)布置することが可能であろう。

しかし時間の変遷に伴って(つまり第一部から第二部への転換と同時に)布置に変化が起こる。縦軸上で唯一移動する人物がガランスである。またナタリーとバチストは結婚し、バチストは一応ナタリーと同じところに安定的に存在する。しかし元からバチストは第一部においても不安定な存在である。ナタリーという安定的な恋人を持ちながらも、バチストはガランスに惹かれ、その熱情に染まっているのである。これが同時に第二部でのカタストロフィへの伏線であり運命であろう。即ち、ガランスは第二部ではモントレー伯爵夫人としてバチスト・ナタリーから遠く離れ、手の届かない存在となっていたし、また二人の日常からは消えかかっていた。しかしそれがフレデリックの怪我・ジェリコの告げ口により急に舞い戻ってくるのである。ナタリーは二人の家庭の象徴・二人の間の子どもを差し向けてガランスの介入を拒否する。しかしバチストは過去の熱情と現在の幸福との間で苦悩し、偶然の重なりでガランスと再会してしまう。

ここにナタリー的な保守的観点からは存在してはいけない出会いが存在してしまったのである。したがって上述の横軸上での激しい葛藤が生ずる。と同時に、上記の大衆‐貴族の縦軸もまたそれに共通しうる、つまりそれらに分け隔てない要素―すなわち性と死、すなわちバチスト・ガランスの不義とモントレーの暗殺―によって崩壊してしまう。

しかしこの座標軸は、最後にガランスが今度こそ遠く、遠く去っていくことで、辛うじて均衡を保ちえているように思われる。消えることでしか維持できないものもあるということだろう。バチストはガランスに追いつくことができなかった。バチストとガランスの再会が結局はナタリー的日常に対する一つの「祭り」でしかなかったとすれば、ガランスを追おうとしたバチストがカーニバルの人ごみに呑まれていったラストシーンは象徴的なのである。

*1:マルセル・カルネ監督、1945年、仏。ASIN:B00006HBH7

*2:ついでに詩になるようなセリフがやたら多かったように思う。

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