政治とは妥協の芸術、なんだそうだ。
もう少し正確に言うと、Politikとは die Kunst des Möglichen und ihre Tugend der positive Kompromiß らしい(1)。ドイツ語を忘れて久しいが、ためしに訳せば「可能性の芸術であり、肯定的な妥協の産物である」とでもなるだろうか(間違っていたら教えてほしい)。
さてこれを聞いてホンモノの芸術家がなんと思うかは分からないが、もし人生にも政治の側面があるとするなら、人生もまたある意味では妥協の芸術なんだろうか?
人はそんなふうに言い聞かせながら、年をとっていくものかもしれない。あるいは、年を重ねるということが即ちそういうことなのかもしれない。
どこともしれない不思議な街、月舟町での交錯を描くこの小説にもそんなシーンが現れる。
そのとおり。私は背が低いので役者をあきらめたのだった。思えばまったく自信なんてものを持てなかった。いや、本当はそうじゃない。自信が持てなかったことを、背が低いことのせいにした。それが正しい。
その証拠に、私は台本書きもままならなかったのだから。
吉田 篤弘『つむじ風食堂の夜』(ちくま文庫) p.62
鶏が先か卵が先か、という話ではないが、その時その時の条件と選択というのは誰にもある。
基本的には、それを多かれ少なかれ正当化しなければやっていけないだろう。
が、しかし。日々を生きていくというのはそれほど単純なものでもないのではないか。
著者の吉田は「クラフト・エヴィング商會」の名義でのほうが有名かもしれない。
あのウィットに富み練りこまれた文章を小説にしたというと分かりやすい。
「私」の父親が手品師だというのもしゃれている(もちろん、話の鍵にもなっている)。
この本を買った日のことはよく覚えている。澄んだ寒空にそれこそ手品のような三日月がかかり、ビルの上をのっそりと飛行船が横切っていった夜だった。
私は高田馬場の郵便局に小包を受け取りに行っていて、そこに閉店セールをやっている古本屋が現れたのだ。
古本屋に行くこと自体久しぶりで、結局行きと帰りに3軒寄った。
昔よく通っていた古本屋への、自分なりのささやかな支援のつもりでもあった。
この話の中の「私」は、ふとしたきっかけから、もう一度台本書きをしてみることになる。
それも、たった一人のために。
それで「私」が自信が持てるようになるかどうかは誰にも分からない。が、一人のためにもう一度やり直すというのは、それほど悪い話でもないだろう。
----- Oswald Panagl, Fahnenwörter der Politik: Kontinuitäten und Brüche, S.204. vgl. GoogleBooks [戻る]










































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