あなたが、そして私が使っているモノにはかならず物語がある。
たとえば、今この文章をご覧になっているディスプレイ。それは今までどれだけのものを写してきたのだろう。ひょっとしたら、あなたはそれを見て笑い、感心し、涙したかもしれない。
あるいはまた、その机の上で書かれたもの・読まれたもの。それはあなたがやりとりした情報そのもののはずだ。そしてその情報は、あなたの人生に何ほどかの足跡を残してはいないだろうか。
だとすれば、そのディスプレイ、その机、それらはあなたの生きてきた時間に他ならない。
場所にも、そうした物語がある。広場、甍、柱、そうしたものに場所の記憶は宿り、そこを数限りない人々が通り過ぎていった。違うのは、人の物語は時間に流され、時間を捨てることによってこそ人は新しくなれるが、場所は留まり、流れず、ただ忘れ去られるということだ。
物語の背後には、人がいる。モノの背後には、仕事がある。仕事をしているのは、誰でもない。人だ(1)。
「降旗 学の長目飛耳(2)」という名の連載、そしてそれが束ねられたこの本はそうした発想に貫かれている。取材対象はみなプロだが、相手への尊敬からかもしくは筆者のスタイルか、距離は近くなりすぎず淡々としているが、世情の背景や事実を描くことは忘れない。それが安心できる。
こうしたドキュメンタリーにありがちな偉人伝・成功者列伝というパターンではない。ゴキブリ駆除研究者に始まり焼イモ屋に終わるさまざまな仕事には、その人たちなりのストーリーが、それも一筋縄でいかないものがある。自分の商売道具が嫌いで仕方なかった人、仕事の夢もプライベートの夢も一度は捨てざるを得なかった人、優しすぎるがゆえに挫折を招いた人、公言しづらい仕事をしている人、普通の大学生活よりクビになったバイトのほうを懐かしむ人…。胸に手を当てれば、他の誰でもない、そうした人たちの日々の仕事が自分の暮らしを支えていることが分かる。そしてどこか、そうした人たちの苦しい思いが自分のなかで反響する。
私にとって救いがあるのは、彼ら彼女らがプロであって、プロであり続けるために生きようとしているところだ。そうして道を拓いていくからこそ、ノンフィクションながらまるでO.ヘンリーの一篇のような展開が読者を待ち受けることになる。
なお、本にはウェブ上の連載にあった写真はない。この煙草のプロのような写真があれば魅力はぐっと増すのだが、そこは紙幅の都合なのだろう。
と言ってもそれでこの文章たちの魅力が減ずるわけではない。「シゴトは選ぶな、選ばれろ」というオビ文句は、そのままBerufという言葉を、落ちた場所で根を生やすありかたを示してもいる。
----まともな人生を送るためにまともな企業で働くというのは幻想であり、まやかしだ。いったい、誰がこんな幻想を若い世代に抱かせてしまったのか――? 大切なのは、その仕事に歓びや生きがいを見出せるかなのに。
降旗 学『世界は仕事で満ちている』(日経BP社、2008年) p.4
- モノの記憶については谷川俊太郎氏の「一本の鉛筆の向こうに」を思い出したことがあった。河井醉茗「ゆづり葉」と並べて書いたエントリだ。 [戻る]
- 本は基本的にここの連載から作られているので、収められた内容はリンク先の一覧から見当がつけられる。 [戻る]


















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