『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(以下『破』)を見てきました。以下、ネタバレ込みの感想です。
10年位前にテレビで『新世紀エヴァンゲリオン』が流行った頃は私はまだ10代で、学校の友人がはまって物真似しているのを横目で眺めていた程度。前作の『序』も見ていないというほとんど予備知識がない状態で、金曜日のレイトショーを見てきました。
ちなみに知っていたのは「シンジがゲンドウという人の子ども」とか「子どもたちがシンクロしてロボット(=エヴァンゲリオン)に乗って戦うらしい」という程度で、パイロットの3人が同じ学校に通ってるとか知らなかった……。設定だとエヴァンゲリオンはロボットではなくて人造人間なんだそうですね。映画見終わってから「そう言えば『使徒』ってなんで攻めてくるの?」とかいう質問をする始末。(笑)
色々とテレビ版との違いを分析したり元ネタを探す楽しみもあるようですが、そちらは詳しい方にお任せします。
で、『破』を見終わった直後の私の感想は「見る側の私(or我々)は(そして作る側も?)『宮崎駿の子ども(たち)』なんだなあ」ということ。
なぜそう言うかというと、『破』(ひいては『エヴァンゲリオン/ヱヴァンゲリヲン』の物語)を受け容れるあり方が『風の谷のナウシカ』の理解の仕方の影響を強く受けていることを、エヴァンゲリオンのデザインから自覚してしまったからです。
つまり、私にはエヴァンゲリオンのデザインはどうしても『風の谷のナウシカ』に出てくる「巨神兵」にしか見えなかったのです。
「セカンド・インパクト後の世界」という設定も『風の谷のナウシカ』の「火の七日間」後の世界という設定と接近しているように思えます。『風の谷のナウシカ』ではその惨事は神話としてしか語られていませんでしたし、巨神兵同士が戦って食べるカニバリズムはありませんでしたが。
そう思って「じゃあ宮崎駿はどうこの作品を評価しているんだろう?」と思って調べたら、庵野監督はジブリで働いた経験があるんですね(先に知っておけよ、という感じですが)。
時に、西暦1983年。庵野氏はTVアニメ「超時空要塞マクロス」で異常にテンションが高いメカ描写をやっていたのが注目され、宮崎駿監督作品「風の谷のナウシカ」の作画作業に招かれた。
この時の宮崎監督と庵野氏の出会いが、まさしく「エヴァ」第壱話の父子対面のシーンである。
「カットを上げろ!」「ぼくが描くの?そんなの・・できっこないよ!巨神兵なんて描けるわけないよ!!」「描くなら早くしろ。でなければ、帰れ!」
挙げ句、庵野氏は原画作業のしんがりまで居残り、無人と化したスタジオで巨神兵を延々と描くハメに陥った。
宮崎監督が庵野氏に与えた可能性とは、物としては動画机であった。
また、心の面でいえば「アニメを作り続けることの意義」であった。シンジの「なぜエヴァに乗るのか?という自問は庵野監督の「なぜ動画机に向かうのか」「なぜアニメーションを作るのか?」という問いかけにおきかえることができる。それは飽食の今にあって、すべてのアニメーション演出家に共通する巨大な苦悩なのだから。
当然、ゼーレの賢人会議とは、アニメにお金を投資して儲けようとしている人々のことである。
宮崎監督は彼らに従うフリをしながら、どこかで彼らの裏をかいて人類の補完を進め、着々と成果を収めている。
使徒とは、人間が真にあるべき姿から人々を引き離そうとする邪悪な存在である。宮崎司令の中では、それは「良くないアニメーション」となる。使徒は毎回姿を変えては、奇抜な戦法で戦いを挑んでくる。ある時は宇宙戦艦。また、ある時はモビルスーツ。そしてまたある時はロリータ美少女。それら人民の敵を、動画机に搭乗した若きアニメーターに撃滅されるのが、特務機関ジブリの大きな任務なのだ。
庵野監督がアニメ界を上の説のようにとらえているとは考えられないだろうか?
もののけ姫とエヴァンゲリオン(宮崎監督と庵野監督)
この見方だけが唯一絶対のものとは思いませんが、非常に興味深いものであることは確かです(1)。
なお当の宮崎氏自身はこの作品『エヴァンゲリオン/ヱヴァンゲリヲン』にかなり否定的とのこと。
多様性や(砂漠の宗教に対置される)森の宗教側に拠って立つ宮崎氏の傾向からすれば、一神教的な物語である『エヴァンゲリオン/ヱヴァンゲリヲン』に否定的になるのは、容易に予測される立場ではあります。
ただ制作でかなり追い詰められていたらしい庵野監督を気遣っていた言葉もあるようです。以下は98年(エヴァンゲリオン劇場版なども放映された後)の対談から。
宮崎 何か、変なほうのことだけ肥大しているという、嫌な感じがする。押井さんは、それを、犬に入れ込むことでバランスをとっているんだ。
庵野 そう思います。僕には、それがないんです。だから、駄目なんです。
宮崎 所帯持つしかないよ。
庵野 チャンネルを切り替えられないんですよ。そこしかなくて。
宮崎 そういう意味では、それで、よくもつね。もたなくなる瞬間も来るんだろうと思うけど。
庵野 「エヴァ」は来ましたね。
宮崎 来てたね。
庵野 ええ。一度、壊れましたから。あれは、こたえましたね。戻ってこれて、よかったと思います(笑)。
宮崎 逃げるのに、覚悟、要るんだよな。
庵野 ええ。
宮崎 でも逃げ方を心得れば、何とかなる。自分で執着しないことだね。一番大事なことは。
庵野 それはありますね。パッと切り捨てられました。どうでもいいや、というように。
宮崎 だから、まだ次、できるよ。その呪縛に縛りつけられなければ。
同じ対談のテレビ放映から。
庵野「仕事してると、、不幸な自分を忘れる事が出来る だから仕事したいんです」
庵野「なんか切羽つまってるときが1番楽しいですね」
宮崎「楽しくないよそんなの」
庵野「俺、楽しいですよあれ」
「間に合うかどうかのぎりぎりの時が1番やってる気がします」宮崎「そういうやってる感じは、俺もういらない(笑)」
宮崎「おれははっきりしてる」
宮崎「作れるなら具体的に自分の友達である、友達の子供達の、具体的に顔の浮かぶ人間達/その連中が本当に喜ぶかどうかでで勝負したい/オジサンをなめるなて まあなめちゃいないだろうけどね」
庵野「ええ」
こうした会話からうかがわれる、約10年前の「師弟対決」と言われていたらしい『エヴァンゲリオン』と今回の『ヱヴァンゲリヲン』の変化は、既にtoruotさんが切り出してくれています。
ヱヴァにおいては、押し付けがましい「規範」が存在しませんし、キャラクターも「適応」しようとしてません。
象徴的なのが、ゲンドウに「大人になれ」と言われたときのシンジのセリフ「大人になるってどういうことなのかわかりません」です。これこそが、押し付けられた規範に対する反抗です。
(中略)
おそらく旧作エヴァに共感したのは、シンジと同じように「規範」に「適応」しようとしていた、でもなかなかうまくいってなかった、そんな人たちなのでしょう。
彼らには、ヱヴァはしっくりこないんじゃないかと思います。「適応」を必要としないキャラクターに自分を重ねることができなくて。
新劇場版は、おそらく「彼らが好きだったエヴァンゲリオン」ではない。でもそれは、「僕が見たかったエヴァンゲリオン」なのです。だから私は非常に満足しています。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の“明るさ”の正体 – toruotの日記
「逃げろ」というメッセージは、10年前に宮崎氏が庵野監督自身に「逃げるのに、覚悟、要るんだよな」「でも逃げ方を心得れば、何とかなる。自分で執着しないことだね。一番大事なことは」と言っていました。そして旧劇場版の制作時にも「逃げろ」と言っていたようです。
「それはだって本人からも聞きましたから。テレビシリーズのときに、どういう目に遭ったかってことをね。それで、本当に困ってたから、『逃げろ!』って言ったんですよ。
『本当にやりたくないんですよ』って言っているから、『映画なんて作るな』ってね。すべてを出し切った人間の状態っていうのは自分の経験でわかりますからね。出し切ったときにね、商売上の理由でそれを続けなくちゃいけないってなったら、どういう気分になるかって考えたら、もうこれは本当にものを作るのを続ける気なら、逃げた方がいいですよ。
自分が作ったものに縛られてね、結局大嫌いなおじさんたちの餌食になるだけですから。『おかげさまでビデオが何万本売れました』なんて、そんな最低な奴が、経済欄に顔を出すような最低の国に、日本はなったわけですからね。たまごっちが何個売れたなんてことがね、経済欄に載るなんてもってのほかでしょう」
この『エヴァンゲリオン/ヱヴァンゲリヲン』自体が親/子の物語ということはありますが、その間にある変化を見る限り、ようやく庵野監督は規範に反抗して/無効にして「逃げた」ということなのでしょうか?
そしてまた、それは今回の映画の客層に「普通の若者(2)」(良くも悪くもオタクっぽくない人たち)が多いことと、無関係ではないように思います(3)。
……書いているうちにやっぱり「テレビ版との違いを分析」することになってしまいましたが、これは結局前作をよく知らない私が言っても限界があるので、この後は詳しい方にお任せします。ただ、この物語からも確実に「子どもたち」は産まれてくるんだろうな、という予感は感じました。
そう言えばその昔『ゲド戦記』という映画があったような……ゴフンゴフン。『ゲド戦記』も含め、このへんまとめた文章があれば一度見てみたいです。
そうそう、BGMの「恋の季節」や「今日の日はさようなら」などの狙った選曲には異論もあるようですが、私は面白かったですね。これは見る側の(そのBGMに期待される)文脈を引きずり出して、見る側を作品の中に参加させる/放り出す仕掛けだと理解しました。その意味では日本ローカルではあるわけですが、ジャパニメーションを追いかける人たち(Danny Chooさんのような)はそのあたりも難なく乗り越えるでしょうから問題ないか、とも(4)。
ただ「翼をください」には私はちょっと笑ってしまいました。それはつまり戦闘シーンの継続で見る限り文脈が離れすぎていると感じたからですが、次作として予定されている『Q』を続けて見ていたら多分笑えなかったでしょう。それはつまり、初号機の「覚醒」という出来事=翼を得る出来事=異形のものとなる出来事(5)が回収されるはずなのですから。
----- この文章、もともとは成人雑誌に載っていたんですね。成人雑誌がサブカルチャー批評の場を提供していたという説を以前どこかで読みましたが、それを象徴する話なのかもしれません。 [戻る]
- 詳しくは 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』における絶対に漏らしてはいけない最大のネタバレ – 瓶治郎の現代詩 を参照ください。 [戻る]
- と言っておきながら、この「オタク/非オタク」の弁別って今でも有効なのかあまり自信がないのですが。アキハバラでもステレオタイプなオタクっぽい人ってもうあまりいないのでは、という予感が。 [戻る]
- このシーンと音楽の技法はキューブリックのそれと通底しているという見解については 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」は誰かを笑わそうとしているわけではない、もしくは真希波・マリ・イラストリアスが碇シンジに「君、面白いね」という本当の理由 – ハックルベリーに会いに行く を参照ください。 [戻る]
- ……と思って漢和辞典『漢字源』を引いたら「翼」の「異」は単に「別の」という意味のようですね。二つの羽で一対なので「別の」ということなのでしょう。でも元の「異」に掛けた読みはそれはそれで面白いので残しておきます。 [戻る]


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