相対主義とメタ相対主義

あまりまとまっていないのだけれど取り急ぎ。なおいわゆる「車輪の再発明」である可能性大。

 sho_taさんがされている相対主義の話なのだけれど、自己言及的になっている時点、つまり「相対主義はそれ自体絶対主義なのではないか?」という問いが立った時点でそれまでの相対主義(つまりあらゆる主義に「単純に」距離を取る立場)とは明らかに変質してしまっているのではないだろうか。いわば、それまでの相対主義が普遍的な相対主義(但しおのれ自体は相対化しない)のに対し後者は特殊的な相対主義(というより自身への問題提起)になっているのではないだろうか。そして前者を信奉する人は相対主義を一種メタ的な主義として考えるだろうが、後者の問題を嗅ぎつける人は必ずしも相対主義がメタ的とは考えられなくなるだろう。それは自身の問題認識のレベルが変わっているのだから当然でもある。

 挙げられている「背理」、つまりあるイデオロギーの「選び直し」を動機づけられるにはそのイデオロギーを相対化してしなければならないはずだが、イデオロギーとは正に「世界の切り取り方」の引き受けであるはずで、とすれば本質的に当該のイデオロギーを相対化することなどできないはずだ、という問題はまったくその通りなのだけれど、だからと言って自己のイデオロギーを対象化すること・その問題点を見出すことが排除されるとは思わない。なぜなら対立するイデオロギーの考え方を「客観的に」比較することはできなくてもその対立点を認識すること、つまりその点を通して「向こう側の」世界の広がりに触れることができるからだ。sho_taさんはこれを指しても「相対主義」という言葉を使っているように思うが、これは上で挙げた二つの相対主義のどちらでもない。

 また、別の問題になる。

 さらに重要なことに、もし相対主義者が「彼らにも限界が見えている」と言った時、それは「相対主義」というイデオロギーに組み込まれた「彼」が見ている、単なるイデオロギー的幻想と言えるのではないか?
 相対主義者は相対主義の限界を見ることができるのか? それもまた相対主義が見せる幻想に過ぎないのではないか? – しあわせのかたち

 確かにこのように「幻想だ」と言えるかもしれないが、ではこう問うている人はいったい誰なのだろうという問いは残る。

 そもそも、およそあらゆる「~~主義」(含相対主義)が絶対主義でなくてどうする、というツッコミ(というか茶茶というか)もありえそうだ。そして言及先でsho_taさんが最後に感じている「疲れ」は単なる考え疲れではないだろう。それは相対主義のスパイラルの中でおのれの距離を連続的に測っていかざるを得ない生、その生に沈んでいく、すすがれもしなければ拭われもしない疲れであるはずだ。

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