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ネットから離れて

日曜日, 3 月 9, 2008 at 13:21:13
カテゴリー: 日々, 考え事

引越し後で10日くらいネットへの接続環境になく、携帯はつながっていたけれども携帯でネットをすることはないのでネット・ウェブ上の動きはまったくわからなかった(一回だけ短時間つないだが)。しかもテレビ・新聞のない生活なので、ラジオをわざわざ聞くわけでもなし、まったくマスメディア的なものから離れていたことになる(こう書き出して気づいたが、もし自分が株をやっていたとしたら今頃大変なことになっていたのかもしれない)。

 メディア的なものにつながらなくても困らなかった、というわけではない。予想外にポツポツと雨が降り出したときは洗濯物が心配になった。天気予報くらい携帯で見なされと我ながら思ったが、すっかり忘れていたのだ。ネットがないと引越し前に注文した家具やらなんやらの発送がどうなったのかわからず、他にも粗大ゴミの申込み先は、古本屋への本の売却は、などと時々電話しなければならない状況に追われた。電話に感じたちょっとした抵抗はきっと、電話は時間の共有を迫るがeメールはそうではないということだろう。

 ネットのことはリアルにない。ネットで触れていた人たちの声はリアルではなにも聞こえず、街を通るクルマの音、通りを歩く人の喧騒の中に埋もれているようだ。かわりに自分が覚えたのは自転車で往復した大型量販店に流れていたクレラップのCMだった。それにしたところで、あとで人に聞いたらそれはもうずっとまえのTVCMだった(1)。でも自分にとっては新しい愉快なCMだ。家のラップは真新しいクレラップどころか、旧居のさらに前の部屋からあったものだけれど。

 新しさ、未来ということについてベルクソンがこう書いている。印象深いがゆえに有名な部分だ。

 時間と自由 (岩波文庫)希望というものをあれほど強い快感にしているのは、私たちが意のままにできる未来が、どれも楽しげで、どれも実現可能であるようなさまざまな形態をとって、誰にも同時に現れるからである。とはいえ、そのなかで最も欲しかったものが手に入ったとしても、他のものは犠牲にしなければならなかったわけだし、結局は多くを失うことになるだろう。だから、無限の可能性を孕んだ未来という観念の方が未来そのものより豊饒なのだし、そのため物をもつことよりも願い事をもつことに、現実よりも夢に、より大きな魅惑が感じられるのである。アンリ・ベルクソン、中村文郎訳『時間と自由』(岩波文庫) p.21

 おそらく、一人一人が「意のままにできる未来」、その選択肢・選択の手掛りはベルクソンがこう書いた時よりも増えた。でもだからといって一人一人にとって自由が「増えた」ことにはならない。選択にはつねに労力・コストがかかるものであり、最善の未来を選ぶコストは選択肢の量が増えればそれだけ増大したはずだ。そしてその陰で「実現しなかった未来」も増えたことになる。そもそもあれかこれかと選べる程度の自由、選択肢の自由なんてそれほど重要な自由なんだろうか、なんて話もありそうだ。

 穴あけいたずらに自由はあるのだろうか。自分も含めてメディアに触れる人たちにはあるのだろうか。引っ越して片づけが終わった部屋はきれいで気に入っているけれど、ここにもまだ、自由の匂いはあるのだろうか。

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  1. こちらのクレハのサイトにある「穴あけいたずら」。 [戻る]
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