将棋のルールはよく分かっていないので不確かなのだが「千日手」は反則だったと思う。なぜだろうか。そのヒントが以下の梅田氏のエントリにあるように思う。
「将棋に話を戻すと、」という前置きを除けば、グーグルの創業者とほとんど同じことを羽生は喋っている。羽生は将棋の世界の情報について、グーグルは世界中のすべての情報について、同じことを意識しながら、同じことを目指している。でも、もちろんその効果、影響は、限定的空間である将棋の世界で先にあらわれてくるのだ。
現代将棋が表現する思想 – My Life Between Silicon Valley and Japan
原理的には「千日手」に陥ったゲームもゲームであるはずだ。棋譜としてはいつまでも終わらず永遠に長くなるか、数学の0.123123123123…を表わすときに1と3の上に点を付すようにうまく表記すればよい。とすると、「千日手」が反則なのはプレーヤーである人間にとってゲームが終わらなくなるからに過ぎないのではないだろうか(もしくは「飽きる」からだろうか)。将棋でもチェスでもいいだろうが、規則にしたがった有限の要素の有限の進行というところがまずはポイントなのだろう。
将棋やチェスのソフトのAIが強くなった、人間だとアマ何級とかプロ何段相当という話がよく出る。その強さとはなんなのだろう。チェスも将棋もみもふたもない言いかたをすればあらゆる手の組み合わせで表現できるはずだ(1)。そうすると原理的にはすべての将棋を打ちつくすことが可能でなければならない。そしてそれぞれの「試合」に番号が振られうるはずだ。あらかじめ番号が振られた試合のいずれかが縁側で、電車に座った人の膝の上で、ネットで、和室で、携帯機器で、現実化する。 もちろん、どの手が「勝ちに結びつくか」をそのデータベースの中から探すのは至極簡単なことだろう。ある局面から展開しうる総数と勝利数を計算し、もっとも勝つ確率の高いものを選択すればよい。もちろんこれはそのデータベースを使った側が必ず勝つことを保証するものではないけれど。
そうすると、既に打ちつくされた将棋をわざわざ打っている人間はなにをしていることになるのだろうか。潜在と実在、可能態と現実態という言葉が頭をよぎる。しかしその前に、将棋を打ちつくしてそれらに番号を振ったこのコンピュータ的な思考ははたして将棋をしているのだろうかという問いがありうる。あるいは、そもそも将棋を理解しているのだろうかという問いもありうる。名詞としては体系であっても動詞としては人間の指し手が欠かせないと、一回しか生きられない人間が一手の物語に感動できる間はと、こういうちょっと危うい物言いだってできそうに思えてくる。
もっと別の角度から考えるなら、たとえば宇宙のどこかにまったくこの地球と同じ星があって、なぜかしらないがまったく同じ展開や運動を辿っていることを想定してみることができる。この時この地球の人間はなにをしていることになるのだろう?そしてまた、向こうの地球が10年先に進んでいるとしたら(2)?そしてまたコンピュータ的思考の理解ということについては「中国語の部屋」に対する評価が必要になるはず。
キケローあたりを引っ張ってリベラル・アーツについてメモしようと思いながらずいぶん時間が経ってしまい、手元に資料はあるのだけれど、それよりも梅田望夫氏のブログにおもしろいエントリが上がっていたので反応してみた。場合によっては追記するかもしれません。
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