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趣味のよさと芸術家の努力

2008/01/20 (日) 17:19
カテゴリー: , 考え事

もうしばらく前のことになるが、絵なり音楽なりある文化対象についての三区分――「それは趣味が良い/悪い(優れている/劣っている)」「私はそれが好きだ/嫌いだ」「それは人気がある/ない」――をめぐってネット上の一部で議論が起きた。なんだか「芸術と社会・大衆文化」「ヨーロッパの相対化」と名札のついた大きな問題がいくつもひっついていて、しまいには真正面から人間と芸術について考えなければならなくなるのが目に見えて正直とても手に負えたものではないのだが、自分の中の問題意識(「教養」をめぐるもの)ともくっついていて面白そうなところもあり、「書く」と言った手前もありで遅ればせながら書いてみる。なお震源元はgood2ndさんのエントリ「趣味の悪さというもの」 あるいは「趣味が悪くてもいいんですってば」 あたり。念頭にあるのはそこへのリアクションであるYOWさんのエントリ「シュミセンス -「ラッセン(笑)」の合わせ鏡と死神」。YOWさんはTwitterで遊んでもらっているが、本職絵描きさんの大きな絵を配したそのサイトデザインは内容とともに一見の価値あり。最近絵が掛け替わったはてなブックマークのほうも。

 本題。good2ndさんのエントリでそもそも問題となったのはラッセンの絵画(に氏が感じる趣味の悪さ)だが、YOWさんはこれに留まらずマグリットの「これはパイプではない」とデュシャンの「泉」、さらに福岡道雄氏の「何もすることがない」をとり上げている。その議論はデュシャンがエポックメーキングになりうる条件の考察まで含まれるのだけれども、とりあえずその社会学的・歴史的な局面への言及は控えたい。また趣味と好悪を同一線上において考える手筋もありうると思うが、good2ndさん自身が別にして考えていることも併せて、trivialさんの整理に従いたいと思う(つまり3つの軸はそれぞれ別と捉える、すなわち「好きだが趣味は悪い(あるいは劣っている)と思う」「嫌いだが趣味はいい(優れている)と思う」という言明の意味を認める)。

 さてgood2ndさんが「優劣の基準なんて誰かが作ったものでしかない」という言明に否定的評価を下し、「自分で判断できる人は、誰かの基準に照らして判断などしていない。趣味判断の傾向を説明する分析はできたとしても、それで優劣が相対化されるわけじゃない」と言っている限り、趣味の良し悪しについてなにか批評家の人々の評価を鵜呑みにして語ることを念頭には置いていないように思われる。「趣味がいい」という言葉づかいはしばしば貴族的サロン的なものを意味する(そしてまた「貴重/ありふれた」、市場に持ってきて「高価/廉価」の軸でも判断されうる)ものなので、若干誤解されやすいところではある。ただしなんらの文化的影響をこうむらずに文化対象の優劣を言うことはできないし、good2ndさんもそこまで踏み込まないだろう。実際「駄目なものばかりを好きになる」という例は客観的な評価を組み入れているし、「教育も啓蒙も放り出してただ悪趣味に迎合してみたって、何にもなりゃしません」という記述から、氏が趣味の良さは教育なり啓蒙なりで培われるものだと考えていることが推測される。優劣とは価値基準に従ったものでありながら、基準自体を試すものでもある。真偽は定かでないがモーツァルトの音楽のリズムが単純すぎてアラブ人が笑い出したという話を私は聞いたことがある。言い換えれば、文化対象の評価にはなにほどか文化にすでに巻き込まれている必要があるのだ。

 TBをすべて追っていないが、「趣味が良い/悪い」という言明には場所と状況が関係するという指摘は重要だろう(1)。趣味のよさを「適切さ」「ふさわしさ」の高さという軸に還元するのは一つの考え方だが、あるいはむしろラッセンの絵を部屋に飾るという例に従えば、趣味のよさを作品自体の価値ではなく「共にそこにいる人がその作品の存在から受ける部屋の持ち主の印象」というところにまで落としこむことができる。そうすれば、たとえばマナーをめぐる議論で「わかる人はちゃんと見ている」という話とこの問題とに共通する構造が見えてくるのではないだろうか。

 だから問題はむしろこの地点、つまり印象の受け手がもつ言語の分散から始まるのだ。しかしそれはたとえば現代社会の流動化についてバウマンの『リキッド・モダニティ』に言及しているklovさんのエントリに譲るとして、もう一度YOWさんのエントリに戻って以下の部分に注目したい。

『これはパイプ~』は、「シニフィアンの優位性」の構造を端的に表したエポック・メーキングな作品なので、コメントで例に提示したのでした。(お付き合いのあるユーザーさんとは既にお馴染みの喩えだったのだ)
「既に示された枠(エコ、動物愛護、平和など)の『中身』にあてハメようとしてるだけ」の表現というものを、
一般に「あざとい」とも言います。

シュミセンス -「ラッセン(笑)」の合わせ鏡と死神- - 十三乙女漂流記 蠅の女王

この言葉に、次の笑いについての文章中での芸術論と通じるものを見出すのはそれほど難しくないだろう。

ベルグソン全集 3 新装 (3)ハムレットという人物ほど特異なものはない。かれがある点で他の人間に似ているといって、それがもっともわれわれの関心を唆る点ではない。しかし、この人物は普遍的に受け入れられ、生きていると普遍的に見なされている。ただこの意味でのみ、かれは普遍的な真理に属するのだ。他の芸術作品についても同様。芸術作品はそれぞれに特異である。しかし、それが天才の刻印を持っていれば、すべての人から受け入れられることになる。なぜ、人びとはこれを受け入れるのだろう?そして、もしその作品がそのジャンルの中で唯一のものであるならば、われわれはどのような特徴によってそれが真であると認めるのだろう?それを認めるのは、思うに、今度はわれわれ自身がいつわらずに見るように、作品がわれわれに努力させる、その努力そのものによってである。真摯さは伝達する。芸術家が見たもの、それをわれわれがふたたび見ることはおそらくないだろう。すくなくも、まったく同じようには見ないはずだ(2)。しかし、もし芸術家がはっきりと見たものなら、かれがとばりを開くためにした努力は、われわれが模倣せずにはいられない。芸術家の作品は、われわれの教訓となる一つの模範である。そしてまさにこの教訓の有効さで、作品の真理が測られるのだ。したがって真理は、その中に説得力、回心カさえも持っており、このカが真理が真理と認められるしるしである。作品が偉大なものであり、かいま見られた真理が深いものであればあるほど、その結果が現われるのは遅いが、その結果は、同時に、よりいっそう普遍的なものになる傾向を持つことだろう。普遍性は、したがって、ここでは生じた結果の中にあるのであって、原因の中にあるのではない。(3)

アンリ・ベルクソン、鈴木力衛他訳『ベルグソン全集3 笑い 他』(白水社)p. 123f.

 「真摯さは伝達する(La sincérité est communicative)」という言葉は、それが如何なる仕方でかを考えるなら、その地点に芸術家の創意工夫があることになる。この問題についてきたコメントの一つ「誰からも見返られぬものにも優れたものがある。劣ったものにも人を揺さぶる力がある(Croneさん)」とはだから、こうした芸術家たちの潜在的な努力、目を開かせようとする努力を指すことにもなるのだ。

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  1. ブックマークコメントではmobanamaさんとかKoshianXさんとか。 [戻る]
  2. ここの点に関連する議論を以前書いたことがある。意識を共有すること - o xein’, angellein… [戻る]
  3. 岩波文庫の林達夫訳『笑い』だとp.149f. [戻る]
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