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『君たちはどう生きるか』

2008/01/13 (日) 11:06
カテゴリー: , 言葉
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君たちはどう生きるか (岩波文庫)年末に立ち寄った古本屋でMくんの勧めを思い出して購入し、丸山眞男(真男)が文章を寄せていたのもあって読んだ。思えば去年はさっぱり本を読まなかった気がするが、これはかなりの収穫だった。Mくんがどういう思いで私に勧めてくれたかはわからないけれど、このレビューをもって感謝としたい。

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 「偉人伝」の類を読んだことがあるだろうか。啓蒙やヒューマニズムという言葉がそのままでは通用しない最近ではあまりもてはやされないだろうが、私の記憶の中にはライト兄弟が飛行機を飛ばすまでの苦労が書かれていた本が残っている。内容はもうあやふやだが、せんべいかなにかを食べながら読んだせいでその本がちょっと醤油色に汚れていたことだけは妙に覚えている。せんべいで汚しては褒められたものではないが、多くの人は昔の人の伝記や話を一つや二つは見聞きしたことがあるだろう。しかし人がみな偉人であるわけもなく、水の中に溶けた一滴の墨汁のように過ぎ去っても拭いがたい後悔と罪とを感じながら生きている人もまた、少なくないだろう。この本は一応少年少女向けの本だが、自分の心のどこかにそうした沈殿がある人にも読んでほしい本だ。さて醤油味のせんべいは出てこないが、この本の中でも主人公で中学生の本田潤一君・通称「コペル君」が学校の友達水谷君のお姉さんからナポレオンの偉大さ、英雄的精神(お姉さんいわく「人間が人間以上になること」)を吹き込まれてすっかり感動するところはちゃんとある。

 話の舞台はこの本の初版が出た戦前の東京で、コペル君はなかなかいいところの坊ちゃんだ。お父さんはもう世を去ったが家は女中さんを一人雇っている。そのコペル君が中学の友達と遊び、時に大学を出たばかりの叔父さんと話しながら成長する過程が順に書かれ、合間合間に話を聞いた叔父さんの意見のメモとして「おじさんのノート」が入るという構成でこの本はできている。コペル君は聞いたばかりのナポレオンの話を興奮しながらおじさんに話したようだ。おじさんはナポレオンがいかなる点で尊敬すべき素晴らしい人格であり、またある点では必ずしもそうではないことを綴る。それもまた良いのだが、その後のエピソードとおじさんの言葉がとても印象的なので引用する。ナポレオンはエルバ島を脱出した後ワーテルローの戦いに敗れ、ヨーロッパ脱出も失敗し、イギリスの軍艦「ベルロフォーン号(1)」に乗せられてイギリスに連れられてきてしまった。プリマスの港(2)はヨーロッパを混乱させたにっくきナポレオン、長年にわたりイギリスの宿敵であったナポレオンを一目見ようという人々で埋まっている(注は引用者)。

 イギリスに着いて以来、ナポレオンはずっと船室にとじこもったまま暮らしていたので、波止場に集まった人々は彼の姿を見たいと思っても見ることが出来なかった。ところが、ある日、ナポレオンは久しぶりで外の空気に触れたくなり、とうとうその姿を甲板にあらわした。

 思いがけず、有名なナポレオン帽をかぶった彼の姿を、ベルロフォーン号の甲板の上に認めたとき、数万の見物人は思わず息を呑んだ。今まで騒ぎ立っていた波止場が一時にシーンとしてしまった。そして、その次の瞬間――、コペル君、どんなことが起こったと思う。数万のイギリス人は、誰がいい出すともなく帽子を取って、無言で彼に深い敬意を表して立っていたのだ。
 
 戦いにやぶれ、ヨーロッパのどこにも身の置きどころがなく、いま長年の宿敵の手に捕えられて、その本国につれて来られていながら、ナポレオンは、みじめな意気阻喪した姿をさらしはしなかったのだ。とらわれの身となっても王者の誇りを失わず、自分の招いた運命を、男らしく引き受けてしっかりと立っていたのだ。そして、その気魄が、数万の人々の心を打って、自然と頭を下げさせたのだ。何という強い人格だろう(3)

 ――君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。

 君も、いまに、きっと思いあたることがあるだろう。

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)、p.193ff.

 「いまに、きっと思いあたることがあるだろう」という言葉はそのまま伏線となって、まもなくコペル君を巻き込んだ事件が起きる。コペル君はナポレオンの話を共に聞き、友情を誓い合った水谷君、北見君、浦川君――家が貧しい浦川君については機会があればまた別途書きたい――をある仕方で、それもその3人の目の前で裏切ってしまうのだ。

 わりかし気の強い北見君は前々から上級生に目をつけられていて、仲良しの4人は万一北見君になにかあったら共に対抗しようと、ナポレオンの話を聞いた日に英雄的的精神のもとで誓ったのだった。ある雪の日、校庭で遊んでいた時のちょっとした事故からとうとう北見君は上級生たちに因縁をつけられてしまう。最初に北見君と水谷君がつかまり、上級生と向き合っているところに騒ぎを聞きつけた浦川君が飛び出す。しかし主人公のコペル君は3人が殴られて騒ぎが収まるまでついに野次馬の群れの中から前に出て行くことができなかった。上級生の「制裁」が終わり見物人たちが去った後で他の3人が共に理不尽な目に遭った者としてうるわしい友情に輝いているのに対し、誓いを守れなかったコペル君はみじめな、とてもみじめな気持ちを味わう。コペル君は偉人からはるか遠ざかり、卑怯者に、弱弱しい、小さな善人になってしまった。

 ちょっとしたタイミングで思っていたことを言い出せない、考えていた行動をとれないということは時として出くわすことだろう。しかしある時になにかを言い出さなかった、なにかをしなかったというのもまたひとつの、そして取り消すことのできないことがらなのだ。場合によってはそれは――少なくとも主観的には――重苦しいものを導く。人はそれを悔やむ。きわめて人間的に悔やむ。コペル君も悔やむ。もうこのまま友達を失ってしまうのだろうか。わざとではないが、結果として裏切ってしまったことをどう謝ったらいいのだろうか。コペル君は迷い、床に臥して学校を休んでしまう。思い悩むある日、おじさんが家に来て、コペル君は思い切って胸の内をおじさんに明かす。おじさんはコペル君の悩みを理解しつつ、ただ思い悩むのではなく率直に謝るというふさわしい行動に移すべきだと、その上でもう他人の心を詮索するのではなくて運命に耐えるべきだと諭す。

君が素直に自分の過ちを認めれば、北見君たちは機嫌を直して、元通り君と友だちになってくれるかも知れない。あるいは、やっぱり憤慨したまま、君と絶交しつづけるかも知れない。それは、ここでいくら考えて見たってわかりゃしないんだ。しかし、たとえ絶交されたって、君としては文句はいえないんだろう。だから――、だからね、コペル君、ここは勇気を出さなけりゃいけないんだよ。どんなにつらいことでも、自分のした事から生じた結果なら、男らしく堪え忍ぶ覚悟をしなくっちゃいけないんだよ。[略]過去のことは、もう何としても動かすことは出来ない。それよりか、現在のことを考えるんだ。いま、君としてしなければならないことを、男らしくやってゆくんだ。こんなことで――コペル君、こんなことでへたばっちまっちゃあダメだよ。

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)、p.234f.

 「男らしく」という言葉が二回も使われていることにはいろいろな異議がありそうだ。それにこのコペル君の場合ほどはっきりと彼我の善悪が分かれてしまうこと、それが共通の認識となることというのもそう多いわけではない。むろん、謝ってもすまないこともある。しかしそこをさし引いても、おじさんの言葉は人が自らと向き合うこと、そして他人との関係を考えることへの助けと励ましになるように私は感じた。おじさんはただ行動を勧めているのではなくてそれを選ぶ精神であることを勧めているのであり、その言葉は人間が人間以上になることについてではなく、人間が人間であることについて述べていると言えよう。それは力強さを誇ることでもなければ卑屈になることでもない。好かれようと媚びることでもなければ嫌われることを闇雲に恐れることでもない。コペル君はこのおじさんの言葉を聞き、決意して謝りの手紙を書く。コペル君たちの友情がその後どうなったかは伏せるが、床に臥しているコペル君にお母さんが話すなにげない思い出の点描もまた別の仕方で人間のあり方を示唆しているということだけ記しておこう。

 ところで最初に丸山眞男が文章を寄せていると書いたが、著者の吉野源三郎は岩波書店の編集者で(Wikipediaの吉野の項)、丸山とも親交があった。丸山がこの本の掉尾に寄せた文は吉野が世を去ったあとでの追悼文である。丸山はその中でこの本が社会科学的な認識の方法を平易に語っていることを称え、そして自らが過去に犯した過ち、のどに刺さったトゲのようなそれを吉野への感謝の念からひっそりと、しかし誠実に告白している。丸山は大学を出て「おじさん」の年齢のころにこの本に出会い魂を揺るがされたという。22か23の頃だろう。私も、この本はコペル君の年齢の人だけではなく、もっと年をとった人が自身を省みながら――あるいはまた、偉人というものについて考えながら――読む本だと思う。

 長くなった。最後に、おじさんが引いているパスカルの語句を掲げておく。

 「人間は、自分自身をあわれなものだと認めることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。樹木は、自分をあわれだとは認めない。なるほど、「自分をあわれだと認めることが、とりもなおさず、あわれであるということだ」というのは真理だが、しかしまた、ひとが自分自身をあわれだと認める場合、それがすなわち偉大であるということだというのも、同様に真理である。だから、こういう人間のあわれさは、すべて人間の偉大さを証明するものである。……それは、王位を奪われた国王のあわれさである。」(4)

 「王位を奪われた国王以外に、誰が、国王でないことを不幸に感じる者があろう。……ただ一つしか口がないからといって、自分を不幸だと感じるものがあろうか。また、眼が一つしかないことを、不幸に感じないものがあるだろうか。誰にせよ、眼が三つないから悲しいと思ったことはないだろうが、眼が一つしかなければ、慰めようのない思いをするものである。」(パスカル)(5)

[略]

 コペル君。このことを、僕たちは、深く考えて見なければいけない。それは僕たちに、大切な真理を教えてくれる。人間の悲しみや苦しみというものに、どんな意味があるか、ということを教えてくれる。

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)、p.249f.

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  1. ベレロフォン号、HMS Bellerophonのこと。 [戻る]
  2. 本文ではテムズ河口とあるが、プリマスが正しいようだ。 [戻る]
  3. おそらくこの時のナポレオンを描いた絵がCharles Lock Eastlakeの”Napoleon Bonaparte on Board the ‘Bellerophon’ in Plymouth Sound”(「プリマス湾のベレロフォン上のナポレオン・ボナパルト」 1815)なのだが、イギリスの海事博物館による絵の説明に従えば、ナポレオンは毎夕6時に船上に姿を見せたとのことである。 [戻る]
  4. 『パンセ』 ラフュマ版114, 116. ブランシュヴィック版397, 398. [戻る]
  5. 『パンセ』 ラフュマ版117. ブランシュヴィック版409. [戻る]
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