ブログになにを書くか、あるいはゴミと友
2007/10/29 (月) 15:11カテゴリー: web, 日々, 考え事
「ブログになにを書くか」というのに対する一つの答えは「書きたいものを書く」なのでありそれは一つの正解だと思うけれども、では「きみはなにを書きたいか」という問いに対する答えは千差万別でありうる。それは結局人がみな違う人だという事態につながるのかもしれないが、そこまで飛躍せずに考えるなら、一月以上前のものだが手掛りになりそうな文章があったので引用する。江口靖二氏の文章。
テレビ局は動画投稿サイトについてどう考えているのだろうか。テレビ関係者はこう言う、「素人動画はゴミだ」。
[略]
そこに登場してきたのが動画投稿サイトというロングテールだ。しかし勘違いしてはいけない。ロングテールになっても素人の個々の作品はその大部分がやはりゴミである。「チリも積もれば」的に積分値で比較するとヘッド部分に匹敵するから十分価値がある、のでは断じてない。ゴミがゴミとして価値を生むのである。ここがテレビ局的発想では理解されない部分だ。
ゴミという単語の連発で画面を汚して申し訳ないが、さらにゴミの例を見てみよう。ケータイのキラーコンテンツはメールだ。それも企業の発信するメールマガジンではなく、友達同士の他愛もないメールだ。友達といっても会ったこともないメル友だったりもする。ソーシャル・ネットワーキング・サイトのキラーコンテンツもしかり。mixiでとれほどくだらない会話が行われているかご存じだろうか。そしてそこには5億円以上の広告費が集まり、上場前の計算で時価総額が1000億円以上ともなることを。
作品性の高さとは関係なく、集積自体がゴミを宝に変えるのだ。素人動画サイトを「ゴミ」と見下すテレビ的発想の限界デジタル家電&エンタメ-最新ニュース:IT-PLUS
これに対する感想は難しい。難しいと思うのは私がどちらか片方の立場にのみ肩入れするということができないからだ。テレビはほとんど見ないけれども、仮に今動画ではなく文章に土俵を変えて考えるなら「素人の書くエッセイはゴミだ」「素人の書く小説はゴミだ」「素人の書く議論はゴミだ」という(ある意味極端な)意見もわからないではない。執筆と編集の現場に立ち入ったことはないが、操觚に携わる人々がプロとして切磋琢磨しているのは想像できる。しかしブログが商業ベースで本になることからも分かるとおり、プロでなくとも儲けが出る程度に売れるほど面白い・共感を生むものを書くことは可能なのだろう(ブログ本だから文章をぶつ切りにできるということを割り引いても)。それに実際の本にならずともリアル・ネット問わず知り合いの日常を読むのは私自身楽しみでもあるし、そこでコメントしたりメールしたりすることもある。それは他でもなくただネットだけが可能にできた事態だ。
しかしでは翻って私が自身の身辺雑記を書きたいかというと「あまり書きたくない」というのが実感としてある。それは「ゴミだから」というのも一面としてあるが、おそらく日常を知らせて友人とコミュニケーションをとるというあり方を私があまり習得してこなかったためだと思う。言い換えれば私がなにを食べて旨かったとか、どこに行っていい景色だったとかは私にとって重要度が低い。他人に知らせる必要のないことである(1)。それだったらせめてなぜそれが旨かったかを説明できたほうがいい。そしてそのとき要請される説明は私の内的文脈だけで説明されるものではなく、外的に説明されるもののほうが好ましいと思ってしまう。できるならその味なり景色なりを相手に追体験させたほうが私の下手な説明よりよほどマシだろうと思う。無論これはそうした説明がない「写真+おいしかった」的日記に私が価値を見出さないということではない。読めばうまそうだと思う。問題はそうではなくて、私が発信する時である。実際私も何も考えずに書くことも多いし、ここの過去ログも書いた本人が読んでよくわからないものさえあるが、なかなか表面に出てこない意識としてこうした雑記へのためらいがあることに最近思い至った。
これはどういうことか。ひとつには私が単に日常生活のセンスがない、生活を楽しむ余裕や心の傾きがないということだろう。また私の日常へのまなざしが粗すぎるということ、つまりまともな日記の書き手にはなれないということだろう。仮におもしろいことを知ってはいてもおもしろい話はできないだろうという直感がある。話術と言うのかな。意識してこなかったので当然だけれども。人の話を聞くのは楽しいことだが、自分が話をすることに対する恐懼、それは次第に大きくなってきた。書くことにはそれほど抵抗がなく、こうして自意識過剰と言われそうなエントリも書くけれども。何も言わない私から人は離れていくかもしれないが、いや畢竟私に人徳がないというだけかもしれないが、そしてその「言わないこと」に私なりの内的な習慣、規範があるにしても、それはそれ、片思いというのは恋愛の筋に限ったことではない。
最近もまた一人二人と友達をなくしたように思う。なにごとにつけ私は鈍いからより正確には「とっくに失っていたことをようやく感じた」というほうがいいだろう。数ヶ月前のある人の言葉が絶交宣言に思えてきたし、最近も要らぬお世話で別の人の繊細な心に傷を残したように思う。それもこれも私の思慮の浅はかさ、余計な言葉のせいであって、もし本当に誠実な人がいるとすればその人はある面では完全に沈黙するのではないかと思いつつ、それでもいつかまた話を聞かせてほしいと心のどこかで感じている。勝手なことだ。もうそんなことは起こらないかもしれないと思うと痛恨の念に駆られる。しかし誰になんと思われようが古い友は古い友ではないのか。もはや記憶の中の人であっても、私が疎んじられ忘れられているにしても、その人がどこかで生きていることに変わりはない。
もしある木を見て「美しい」と感じるならただ木が美しいだけでは不十分だろう。その光景、その視点、その身体感覚、その時間、その空気、そのめぐり合わせ、その自己了解、その言葉づかい、その生、そういったものすべてがその時まさに美しいのである。それはゴミだとかそうでないとかいう話が関わるところではない。ある点では共有されても、ある点では共有されない。もしあらゆる感情でそうした次元があるなら、共有されるものとされないものとの交差と軌跡こそが蹉跌であり喜びではないのか。漂うゴミがもつ憧れ…!
-----Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and auld lang syne ?For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we’ll take a cup o’ kindness yet,
for auld lang syne.
Auld Lang Syne (Robert Burns) - Wikisource
- あるいはこれは単に伝えたいほどそうしたものに触れてないというだけかもしれないと思いなおした。[10/30] [戻る]




