VernunftとVerstand
2007/10/24 (水) 20:31カテゴリー: 学生時の哲学もの
学校の演習でヘーゲルの「差異論文」、正確には『フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』を読んでいる。ヘーゲルが学生~家庭教師時代(青年期)を経て大学に私講師として職を得るのが1801年イェーナにおいてだが(31歳)、同年に書かれた論文。生前そのままの形での公刊を意図して書かれた点では後年の『精神現象学』『大論理学』と同じだそうだ。カントを少し読んでその後のドイツ観念論に触れること自体がほとんどなかったので面白い(検索でこられた方ごめんなさい)。読んでいる箇所は始めに近い「哲学の要求」(Bedürfnis der Philosophie)という部分で、哲学がどうやって生じてくるのかという部分。演習が初学者向けなのもあってドイツ語の説明が懇切丁寧、90分か100分そこらで6、7行しか進まない。それを引いても、以前ちょっとだけ読んで退散した『精神現象学』よりはるかに読みやすい気がする。
文献的な裏付けがないのでテキストと先生の話を受け売りなのだけれど、理性と悟性の話が有名らしいが面白かったのでメモしておく。ヘーゲルの議論では悟性は絶対者に駆り立てられ、人間と絶対者との間に構築物を設ける。「絶対者」「構築物」でなにをイメージするかはもっと読まないとなんとも言えないけれども、どんなに構築物を増やしても、絶対者そのものは部分のうちで見失われ悟性が絶対者に到達することはない。こうした悟性に対して理性は絶対者を認識するどころか絶対者に到達できるとヘーゲルは考える。さて悟性の建てる構築物が堅固で輝かしいものであればあるほど、構築物の中で囚われている生が自由へと向かう努力は抑えがたくなる。ここから哲学が生じうる…という運びになる。というかこれ自体が既に哲学になっているのはご愛嬌だが、ここを読んだだけでも解説書ではなく原典がもつ一種の異様さ、力が感じられる。
さて悟性(Verstand)と理性(Vernunft)はこのように対立関係にあるのだが、この時期のヘーゲルに影響を与えていたカントの区別(ともとのラテン語・ギリシャ語)もあわせて示すとこうなる。
- Vernunft(< vernehmen) - 叡知界 - ratio - logos
- Verstand(< verstehen) - 現象界 - intellectus - nous
カントでもやはり(狭義の)理性(Vernunft)のほうが高度な能力―悟性自体を統一する能力―と考えられているのだが、面白いのは中世のラテン語的伝統ではratioとintellectusの序列が逆だということ。日本語の訳はintellectusには知性を当てると思うが、ratioは理性というより計算できたりする実際の能力のことを指す文脈で用いられていたそうだ。「理性批判という倫理」(院生の天窓 さん)で「ある程度哲学史をかじった人間ならよく知っているあの問題」とさらっと書いてあり、何かで読んだのかもしれないが、やはりカントが逆転させた模様。ついでにリンク先では実は逆転ではないのではないかという話もされている。カントの専門家たちはそんな話をされているようだ。
「悟性(知性)intellectusと理性ratioの序列」(河野與一と河野与一 さん)、中原紀生氏の「断想(2)──スピノザ式知性について・その他」(「【383】文学知と超越論的構想力」の部分に言及あり)も見つけたのでどうぞ。
タグ: G.W.F.ヘーゲル, 哲学史




12 月 27th, 2007 07:45
はじめまして、院生の天窓のものです。記事にて言及いただき、ありがとうございました。
何か偉そうなこと書いてしまいましたね。反省しきりです。ratio(Vernunft)とintellectus(Verstand)は、ふつうの見立てだと、カントが両者を逆転させた、ということになると思うのですが、なかなか難しい問題です。ただ、カントの認識論は後世に大きな影響を与え、現在の哲学的思考の枠組みをある程度規定していますし、この理性と悟性というおはなしは、人間知性、あるいは人間という存在者を全体としてどう捉えるか、ということとかわってくる議論ですので、なかなか調べたり考えたりしてみると面白い問題ですよ。何か発見がありましたら、ぜひ教えてください。
またこれからも、たびたび遊びに来たいと思います。それではまた。
12 月 27th, 2007 13:06
たろうさん、コメントありがとうございます。散漫なブログですが、わざわざ足を運んでいただき恐縮です。
たろうさんはいわゆるアカデミズムの中で学究の徒として活躍されているのでしょうが、なかなかそうした(プロパーの方の)ブログをお見かけしないのでありがたく読んでおります。記事で書いた近代認識論(と人間観)もそうですが、25日に書かれていたKrVの「観念論論駁」からデカルトへとたどる道というのもスリリングですね。ライプニッツも佐々木先生の本を読んだっきりなのでまだまだです。
最近哲学や基礎的な倫理学は(特に日本では)なかなか肩身の狭いことになっていると感じます。こうした思考群に魅力を感じる人間というのはけして少なくないと思うのですが、大学も余裕がないのでしょうね。余裕がないから文学系を切るというのもまた余裕がない……。(苦笑)