読むこと、読まないことについて少し
2007/10/21 (日) 11:41カテゴリー: 考え事
sho_taさんがブログで「頭のいい人が書く文章」問題(1)についてこう書かれていて、なにか通じるものを勝手に読み取ったのでメモ(ちなみに私がsho_taさんに注目したのは「しあわせのかたち - 「自分嫌い」が許される性」という素敵なエントリから)。
●(その難解な文章を)「読む前」と「読んだあと」では、「認識」そのもの、「事象の見え方、捉え方」、「世界への接し方」そのものが変わる文章というのが、世の中にはある。
(ここ、「まるでOSやブラウザをバージョンアップさせた時のように」という例を考えついたが、PCに詳しい友人に「その喩えはどうだろう」と言われたので要再考)
●「一目惚れ」に喩えるとわかりやすいかもしれない。
(けど、それだと「バージョンアップ」のニュアンスが伝わらないかな?)●というより、本質的にはあらゆる「テクストを読む」という行為には上記のような作用がある。
●「事象の見え方、捉え方」が変わる、つまり「度量衡が変わる」というのであれば、「変わる(バージョンアップする)前の価値判断」と「変わったあとの価値判断」はまったく別なものである。
●しかしある文章を「読むか、読まないか」(つまり「変わるか」、「変わらないか」)の判断は、常に「変わる前」になされることになる。
●それなのに、自分でも難解でよく理解できず、「読んでいない文章」というのを、「読まなくてよい」と判断する根拠というのは、どこにあるのだろうか? それこそまさに(イソップ童話の本義である)「酸っぱい葡萄」ではないか?
●また、そういう「理解の仕方」を考えるとき、ある難解な文章を「わかった!(ユリイカ!)」と叫ぶ瞬間とは、どう位置づけられるのか?「頭のいい人が書く文章」問題について考えている : 2007-10-18 - しあわせのかたち
確かにいろいろな問題がありそうでワクワクするのだけれど、とりあえず思ったこといくつか。予め言っておくと、この手の問題について私の中にデリダやラカン、バルト、クリステヴァ、オングとかの思想的バックボーンは皆無なので裏取りなくほとんど書き散らし。しかも問いを出しているだけ。ishさん(「わかる」ことと作者の転生)も大野さん(「知っていると想定される主体」への抵抗)も言及されてるし、正直畏れ多いな、というか現代思想にコミットしてない私は無理かと思いつつ。というかたぶん私のよりこの二つを読んだほうがいいです。
- 「読み」にしても公共的な読みの側面と私的な側面の態度を考えることができると思う。公共的というと大仰だけれど、パラフレーズして、共有されることを前提にした読みの態度とそうでなくてもよい個人的な読みの態度とも言える。たとえばスポーツのルールや結果を読む時の読みと、批評家ではない一般の人々がエッセイを読むときの読み。もう少し言い換えて、たとえば話の・仕事のネタにしそうな文章の読みと、自分の生き方と向き合わされる文章の読み。前者は誰かと共通の理解が要請される、つまり他の人の読みとのすり合わせが要請されるが、後者は必ずしもそうではなく、むしろ「作者」との向き合いになる。
- 「読まなくてもいい」という根拠: sho_taさんの問題設定を引き受ければ想定される情報の価値づけが事前に既になされているということか。この極端な例は自身の中で未分類の文章=自身のまったく知らない分野(たとえば私にとって「射出成形技術」)の文章に出会ったときにどうするかということ。普通これは「読まなくてもよい」と思いもせずスルーするのではないか(2)。ではもう少し近い文章で難解なものをスルーする場合は?「誰が書いているか」という次元は措きかつスルーしなければ原理的に「読める」とした場合、そこで怠慢・思考停止を言うこともできるが、むしろ自身のこれまでの言葉の経験・澱みと「『自分はこうしたことに興味がある』と(再帰的に)思っている」ということからの関連づけと価値づけ、取捨選択が行われていると見たほうがよいか。とすると、「継続は力なり」とは達成される成果の評価だけではなく自身を作り変えることも意味することになる。
- そのような関連づけ・価値づけ、そしてそれからまた再生産的に自分に価値ある情報を見つけ出すために「見出し」「パッケージング」というのが必要だった。文章の題名しかり、新聞の見出ししかり、本の書名・オビ・目次しかり。ある意味では作者の名前もそう。しかしその文章を生み出す意識の流れ、そしてそれを言葉にする時に見出しはあるのか/必須なのか、判然としない。場合によっては意識と文章の構造が流動的になる状態を考えることができるか。文章にパッケージは必須かという問いと、媒体によって/書いた人の名前によって情報判断の面倒さを減らすということ(ただし人名の場合はこれに「あの人なら書いてそう」「こう言いそう」という期待も入るか。また再読での発見。)。
- なぜ関連もない本たちが同じシリーズという理由だけで隣あって並ぶのか。そしてまた、関連ない文章が同じ媒体の中に並ぶということを考える必要がある。出版・印刷の都合、時間とニュースの都合。
- 「わかった!」という感覚について。文章内のレベルでは解釈学的循環と呼ばれているものが呼応する?よく体験されていることだろうが、部分の理解と全体の理解が相補関係にあるということ。しかし文章外、人生経験や実感として「わかった!」を位置づけることはもはや個々人の問題であり、そこに成長があるのではないか。結果が認識的に先に来て原因が後に発見される・特定されるということ(時間だけ抜き出せば「青い鳥は青かった(ということになった)」と同じ)。あるいはまた、わかるという裏切り/説明するという裏切り(?)。
- なおこの問題自体については私は遠巻きに見ているだけ。「『頭のいい人は、難しい概念も簡単に説明できるはずだ』問題 の解説」、「俺に理解ができないような難しい文章を書いている奴はみんな莫迦 : 2007-10-02 - とーびーらーんぶしー」あたりがいいサマリーになっている…と思う。 [戻る]
- ここは大野さんもパソコンの例を出して言及されている。またPOLAR BEAR BLOG: 「嫉妬は可能性の表れである」も参考になる。 [戻る]





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