「活字離れ」とムラ社会
2007/10/13 (土) 22:20カテゴリー: 日々, 本
今日、アルバイトの個別指導で教えてきた生徒が一人終わった。国語を担当した理系の生徒なので、これからのセンター試験対策以後は独力でできると判断したのだろう。浪人生でまじめな生徒だったからうまく第一志望に入れるといいと思う。
「今日で終わり」という話は急に舞い込んできたのでとくに選んだわけではないのだが、演習問題は清水哲郎・橋本治各氏の文章、古文の「住吉物語」だった。橋本氏の文章が元は94年に出た『浮上せよと活字は言う』からの抜粋で、興味深かったので孫引きになるが引いてみる(以下敬称略)。
「活字離れ」についての文章なのだがまずこう始まる。「若者の活字離れ」という表現はあまりに不正確だと。そう言われる時の「若者」というコトバだってしばしば大学生を意味するに過ぎず、かつては大学生でない若者も多かったし、そもそも本なんて読まない「若者」もゴマンといたと。
「今の若者は難解な思想書など読まない」とこの二十年ばかり言われ続けて、しかしその一方で、平気で難解な思想書を読む若者だとて増え続けてはいるのだ。もっと物事を正確に言ってほしかった――「今の若者は、私達が読んだような思想書は読まずに、別の思想書を読んでいる」と、それだけのことだった。本を読むやつはいつだって読む。本を読まない人間は、いつの時代にもいる。橋本治『浮上せよと活字は言う
』
「活字離れ」というのは流行現象の問題、出版不況の問題としてではなく歴史的な文脈で理解されなければならない。橋本いわく、近代の日本とは若者に対して「本を読むべきだ。本を読むということが自身の思考力を身につけることなのだ。人は言葉で思考し、その思考を言葉によって整理する。人にとって思考と認識とは、人である限り続く義務であり権利であるはずのもので、そのことの結果によって得るものが“自由”と呼ばれるものだ」と「知性なるもの」が言い続け、若者もかろうじてそれに応えてきた時代なのだ。そうであれば一層、「活字離れ」というレッテル貼りのもとに「啓蒙」を怠ったという事実は重いものになる、と橋本は言う。
そのようなレッテル貼りは活字文化の「ムラ社会」性を象徴している。絵のような視覚表現はしばしば「どう読み取ってもいいよ」という幅を許しているのに、「これをこう読め」と「活字なるものに命令されることに馴れてしまった活字人間」にはそうした表現は読み取りがたく、「役所の書式に合致していないのでこれは受け付けることができません」という役人よろしく自身の頭で接点を見出す作業、文化であるものが備えている構造を見抜くという作業をただ拒絶している。「活字離れ」とは実はそうしたムラ社会に起きた「過疎化現象」なのだ。
「ここにいても自分達の生活は成り立たない、ここにいても自分のあり方というものは理解されない」と思った若者達は、都会という雑駁な泥沼に消えて、もう山間のムラには帰って来ない。[略]さびれてしまったことを理解しない閉鎖的なムラの住人達は、ただ「寂しくなった」という愚痴ばかりを繰り返して、そんな愚痴が、人をそのムラから追い払う元凶の一つであることに気づかない。[略]閉鎖性を解き放つはずだった後継者達は、焦点を欠いた都会の中で無意味な浪費を繰り返す。退廃の元凶はどこにあるかと言われたら、私には、「ムラにある」としか言えない。活字の責任というものは、想像を絶して重いのだ。橋本治『浮上せよと活字は言う
』
問題文はここで終わっている。言及されている「活字文化」の一つであろう「人文書」の盛衰については長谷川一『出版と知のメディア論』という労作が既にあるが(1)、出版から10年以上を経た今橋本の議論はなおも有効なのだろうか。いささか古ぼけた「啓蒙」という言葉はどこかでささやかれているのだろうか。「若者」を引きつける活字文化が生まれ、「ムラ」に活気は戻ってきたのだろうか。いやそれとも新しい「ムラ」が同じ山のどこかに、あるいははるか遠くの山に生まれた/生まれつつあるのだろうか。このような問いへのはっきりした答えが見えないなら、なお橋本の議論は意味を持っていると言わざるを得ない。
こうした話は受験科目としての「現代文」では余談に属する。「現代文」を教えるというのはなんだか変な作業で、数学に例えて言うなら「ルート2とはおよそいくらか」を教える部分もあるが、むしろ「ルート2の導き方」「ルートという考え方」を教え、生徒が自力で導けるようにする部分のほうが本質的だと思っている(2)。だから教えるというより一緒に読んでみるというほうが正しい。本当は問題の「正解」に至って成績アップすることが大切なのだけれども、共に読むことを通してなにか面白い文章を、文章を読むことの面白さを発見してくれるほうが、そして私の読みなぞよりはるかに広く深く読むようになるほうが万々歳なのだ(同じ病気の患者を増やすとも言う)。その意味でも今回の文章は私にとっても生徒にとっても示唆的で、本を通して・あるいは大学で学ぶということ、その面白さ・魅力をどれだけ「若者」にアピールできるかという問題を含んでいた。
これから受験シーズンを経て彼が歩む人生には不如意なこともあるだろう。ともすれば不遇をかこつことになるかもしれない。しかしこと大学で学ぶかぎり大概のことはなにかしら面白いだろう。そこでの知のあり方を体得し、「人文書」ではなくとも「活字文化」村に時々顔を出してくれるようになればいいと思う。いや、本当は「文章」村でも「思考」村でもいい。それだって時々で十分。私は「感動的な話」や「心の琴線に触れる言葉」を当意即妙に繰り出す人間ではないから最終回の今日も大した言葉を送れなかったけれども、共に読んできた文章がいつか心のどこかで響くなら、ムラで住める場所の手がかりを彼に案内できたことになるだろう。
------ 積読だが、出版社に勤められたあと研究生活に戻られた氏が「あとがき」にこう書かれているのは印象深い。「執筆を終えておもうのは、結果的にじぶんの立ち位置をみずから掘り崩すような作業になってしまったという厳しい実感である。わたしより年長でも年少でも、おそらくこうした批判的作業を切実には必要としなかっただろう。」長谷川 一『出版と知のメディア論――エディターシップの歴史と再生
』みすず書房、2003年、p.362f. [戻る]
- cf. アナムネーシス(anamnesis)、『メノン』での想起説。 [戻る]




