terracaoさんのエントリ、「「頭のいい人は、難しい概念も簡単に説明できるはずだ」問題」についてMasao_hateさんが
そうだよなぁ。学問関係の原著とか難しすぎて読めたもんじゃないけど、あの人等は頭が悪いわけじゃないもんなぁ。難しい言葉を易しい言葉に置き換えた時点で、ニュアンスが変わってきちゃうこともあるし。
はてなブックマーク – 純粋なココロに刻み込んだ記憶の断片 / 2007年10月06日
とおっしゃっている。術語というかジャーゴンというか、そうした専門語だけが語れる現象というのがあるか、という問題だと思った。
おそらく二つの問題があって、一つはそうした専門語が生まれた文脈、生まれた場面という問題。なにかある事象や概念を語ろうとして言葉が足りず、あたらしい言葉を必要とする場面というのはたしかにあると思う。それは韻文で特に著しいと思うけれども、便法としてある言葉を定義することは普通だろう(たとえばソシュールのいうシニフィアン/シニフィエとか)。もう一つの問題は、そうした言葉が生じたことによって(それこそシニフィアン/シニフィエとか)、本来の定義とつかず離れずの関係で様々な語りが生まれることになり、それがまたある種の背景をその語に持たせるだろうということ。
この二つ目なのだけれど、そうした背景にはたとえば学術的な先行研究がある一方、研究的水準からすれば否定された旧説、あるいは端的に誤解とされる解釈もある。しかし全ての人がその分野の研究者でも専門家でもないのだから、そうした旧説・誤解でもその人にとってなにか納得行くところがあるならそれはそれで有益であるという次元はある(1)。しかし学問の場面ではもちろんそれは論外で(2)、そうした次元を排除する「ふるい」として大学や学会というのは社会の中で機能してきたのかなと思った次第。学会発表はおろか、普通のゼミの時でさえも教員の前で根拠の薄い珍説を述べるのはなかなかのツワモノだろう。それでも研究者にならない人の発言ならにこにこして聞いてくれるかもしれないが…。
こうした「ふるい」はおそらく学問的研究と学者達がする教育コストを下げるために整えられた・整ってきたのではないかと思う。一から十まで通りすがりの素人に説明していたら身が持たないし研究が進まない。そこは自分で本を読んで勉強してね、というスタイルだ(3)。そしてまたこの「勉強」の過程には(受験勉強と違って)達成度や客観的尺度はないし、専門的知識のこれまでの蓄積というのは目が眩むばかりあるので、学者の卵が一人前になるまでには相当の社会的コストがかかることになる。
なんだか話がずれたが、そもそもは場の雰囲気・空気が発言を抑制することは生身のカラダが居合わせる場面ではよくあると思うけれども、ネットでそういうことがあるのか・ないのか、あるならどの程度あって現実とどう違うのか、そしてそうした抑制があるほうがいいのか・ないほうがいいのかというのは面白い問題だと思う、ということを言いたかった。ここで話は前のエントリと結びつくけれども、私は特に近い将来学問的場面でどうなるのかというところと今回の話題のつながりを感じたのだった。
----- 思想がブームになるときって大概そうなのかも。思想ってブームになれないもののような気がする。 [戻る]
- 新説を覆す旧説の利点を主張できたり、あたらしい分野を切り開くというなら別だが、否定された旧説を再度主張することはムダどころか犯罪に近い…と思う。読んだり聞いたりする人の時間を奪うのみならず真理に反している。 [戻る]
- ただ他方で研究者はしばしば教育者なので、もとのterracaoさんのエントリで言えば1でもあり2でもある。 [戻る]








































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