人・主張・学・ネットワーク

 idiotapeさんの「慣性のある生活 – ネットに何か書くことの利点を初心に帰って思い出す」という文系の大学院の話を今頃読んだ。思い当るところがある人も少なからずいるのではないだろうか。Yさんの感情についてはにわかに触れがたいところがあるしもっと別の人が書くだろうから、ちょっと想像力をたくましくしてSFの成り損ないみたいなことを研究者崩れどころか院生の成り損ないみたいな私が書いてみよう。

 学術の場面では真理がすべてであり唯一の価値基準だ。それ以外の価値基準が入り込むかどうか、またその真理の内実は時代によって刻々と変わるとしても、「真かどうか」「正しいかどうか」ということを至上の価値基準として学問が動いてきたことは間違いないと思う。学者とそれを志す人々はだから、おたがいに一歩でも真理に向かおう、新しい真理を見出そうとする点で協力者でありライバルでもある。ちょっと意地悪く言えば、知らない者は敗北者である。田島正樹氏が「己れの幸福はおろか、己れの家族の幸福さえも、あたりまえのように犠牲にして顧みないあの連中の運命の苛烈さ」(1)と綴ったことも、そうしたただ真理に近づかんとする態度からすればある種の必然性を帯びてくる(皆が皆そういう劇的な生活を送るわけではないが)。

 なぜ真理を目指すことが幸福とつながらないのか(2)?「人は真理のみにて生くるにあらず」というダジャレみたいな言葉を退けておけば、幸福の定義に立ち戻ることになってしまう。ここでふと「おれうまいもの食べたいよ」といって大学院に入らず就職していった人を思い出す。別に大学の教員が「うまいもの」を食えないわけではないが、食えるようになるまで相当の時間がかかる。食えるようになるという保証もない。つまり、真理を追求することは「うまいもの」を食えるようになる近道ではない。しかしその道を遠回りしても、真理への近道を取るのが研究者達である。このズレが学者とその卵たちにある陰鬱さの色調を加える。

 もし、もしなのだが、あらゆる学術的主張が「SはPである」式の文(命題)とその複合で表現できるとしたら、と考える。それがすべての学問分野を結合するのは到底望めそうもないが、今の大学の専攻分野ごとぐらいに命題同士を結びつけてデータベースにすることは可能かと思う。自然言語は曖昧だから、特に文系の場合「~~なのではないか」「~~である可能性も否めない」といった言い回し(この文章にもあるが)をどう扱うかという問題に直面しそうだが、そうしたなにがしかの主張はもはや論文に書かれたのだから収録してよいだろう(3)。文学部でなされる研究の多くが史的研究を含み、心理学や社会学が実証的研究を標榜するなら、こうしたデータベースはますます可能であるように思われる。それは一見極めて瑣末な事象の集積になるだろうが(4)、それがいかに瑣末であろうと真理は真理であり、真理である限り検討され批判され尊重されなければならない(5)

 こうしたデータベースとその原理についてはルルス、ライプニッツ、ラッセルたちや私がまだその名前すら知らない図書館学、コンピュータ関係の人々が研究してそうなのだが、それが今どうなっているのかわからない。ただこうしたデータベースが可能になれば、ひょっとしたら学会や論文、著書によって研究を世に問うスタイルが必須ではなくなるかもしれない。なぜならどのような形で言われようとも真理は真理であり誤りは誤りだからだ(6)。いつか、世界のどこででも場所を問わず、このデータベース、命題のネットワークと格闘し、そこから新たな問題を見出すことこそが学者の仕事になる日が来るかもしれない。もちろん実際に人間に会って薫陶を受けることは大切だと思うし、私が影響を受けたのも実際に教えを受けた人たちからだけれども(そして僥倖なことに彼・彼女達はとても親切な人たちだった)、それがためにする攻撃など悪影響を及ぼす場合は言わずもがな、ある貴重な真理の主張が埋もれていってしまうことを思うと残念でならない。

 その意味で私はQ&Aサイトという形態(とネットが持つ仮名性)にちょっと期待するところがある。個々のQ&Aが学問を形成するかどうかは別にしても、学問はQ&AでありQの発見と生成とみなすことができるからだ。いま学術的な専門家と見なされている人の多くはQ&Aサイト、特に専門と関連する分野を見ていないと思う。新しいサイトでもいいのだが、Q&Aサイトを彼らにとっても魅力ある場、つまり上記の学術的主張を検討する場にできないかと思う。そもそもいまの専門家達がネットでQ&Aを共有しようという気になるかどうかも問題なのだが、実際紙を通してやっていることはQ&Aの共有なのではないか。まだインターフェースが不向きという根本的な問題があるのかもしれないが…。

 なおついでに言えば、こうした言葉レベルを超えて意識の共有を考えられないかと思って書いたのが「意識を共有すること」。

 今回の話題に関連して「pêle-mêle – だいがくいんのきょうふ」「WIRED VISION / 濱野智史の「情報環境研究ノート」 / 第12回 セカンドライフ考察編(7) :「いま・ここ性」の複製技術としてのニコニコ動画」「ティム・オライリー:WEB2.0提唱者に聞く—-独占インタビュー – 毎日jp(毎日新聞)」も思い出したので書いておく。 濱野氏のものはベンヤミンを引き合いに出しつつ「いま・ここ性」、臨場感を擬似的に複製できる装置としてニコニコ動画をとらえるという試み。T.オライリーインタビューでは「グーグルもウィキペディアもエンサイクロペディア・ブリタニカも出版者」「楽譜が音楽をシェアする手段だった時代には、人々は楽譜を買ってピアノを弾いた」という見方が鋭い。というかオライリーは大学で西洋古典をやっていたのか…。エリート教育としてなのか、自発的なものなのだろうか。

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  1. cf. ララビアータ:マルクス家の方へ a cote chez Marx [戻る]
  2. アリストテレスのような人は別。たまたま彼を引いた短いエントリを書いていた。こちら。 [戻る]
  3. 用語のブレのほうが深刻な問題だと思うし、思想系だと用語の意味するところで侃々諤々、時に言語の限界を志向するところもあるから微妙だけれども。 [戻る]
  4. たとえば「1800年1月2日から3日頃、某は小説「AAA」の文章の3章のしかじかの語句(X編全集版Y巻 p.zz)をppからqqへと書き換えた。」「この書き換えの原因としては以下のことが挙げられている。~~~」「またこの書き換えを疑う説(V「「AAA」3章におけるB「CCC」の影響」『G大学文学部紀要』f巻g号、G大学文学部、2000年、pp.aaa-bb)もあったが、それはRの論文「出版業者Uの1800年時の活字の特徴ある字体について」(Rの著書『WWW』、L出版社、2002年、pp.cc-dd)で否定された。」など。 [戻る]
  5. と同時に、検討され場合により否定されるのはその主張であり、当然ながら主張をした人格・人間ではない。 [戻る]
  6. もっと過激に言えばある主張が誰によってなされたかなどということもどうでも良いことかもしれないが、しかしおそらく(現状では)誰が言ったかということとその主張の信憑性は相関があるだろうから私はさしあたりそこまで主張しない。またある主張が「評価される」ということは往々にして時代・時節と関係していると思うが、「評価される」ということと「真である」ことにいかほどの連関があるのかもはっきりしない。また物語と論文との違いを明らかにする必要もあると思う。 [戻る]
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