大雑把な話になるし詰めてないのだが(1)、人間の情報共有メディアがどんどん「リッチ」なものになっている傾向はあると思う。インターネットでテキストだけのサイトより画像を多用したりあるいはYouTubeのほうが面白がられることを見てもそうだが、人間が叫び声やジェスチャーに始まり、文字、目印、絵、彫像、活字、写真、電話、ラジオ、映像…と、どんどん伝達できるものを増大させてきたことは否定できないことのように思われる(2)。
だがこうしてどんどん受ける刺激や情報を共有しツリーからリゾーム型にチャンネルを増やしながら、まだ人間が共有できていないのは「体験」そのもの、あるいは「意識」そのものだろう。たとえ同じ映画を見ても受け取る印象が異なるのは言わずもがなだが、見る場所や見たときの体調、あるシーンに受けた昂揚感、またあるセリフで昔の記憶が呼び覚まされること、そうした感覚を我々はまったく共有できない。せいぜい見終わった後一生懸命言葉で語り合う(リアルでもネットでも)、あるいは評論家の言葉を読む、映像を見るのが今の限界だろう。あるいは殺人現場を見た人の意識・加害者の瞬間の意識や、名演説や失言をする政治家の意識などを我々は知ることができない。要するに他人の頭の中をのぞくことができない。
のぞいてどうするのという意見が上がりそうだが、他人の考えを逐一言葉で説明するより感動・感覚をそのまま伝えた方が有効なことも多いと考える。広々とした草原で風に吹かれる春先の映像を夏にクーラーの効いた部屋で見てもリアリティはないが、風に吹かれるその感覚が伝わってくればはるかに爽やかに感じられるだろう。同じように、映画のDVDを小さい画面で見るより、映画館にいて見ている感覚をそのまま伝えてきた方がはるかに豊かな鑑賞体験になるに違いない(3)。もちろんこれは言葉がなくなればいいとか、論理的思考・批判の価値を無にするものではない。
もしこうした「体験」そのものの共有を考えるなら、意識を共有する、あるいは比喩的に言えば意識を増やす時代を想定することができる。もちろん体は増えないわけだが、思考実験としては脳を取り替えた人間の問題と同じ状況が出現することを考えることができる。つまり、寝ている間に自分の脳Aを他人の脳Bにすっかり取り替えられた人間がいたとして、その人がまた寝ている間に脳Aに戻された時、間の体験の記憶は脳Aに残らないだろうということだ。ジキルとハイドの間の自意識と記憶は連続しないだろうという問題でもいい(4)。しかしこの辺は実際には慎重に共有が進み、ある程度までは線引きができるのではないかと思う。ある種の精神病の研究が役立つかもしれないし、きわめて鮮明な夢を見る感覚と並列的に語りうるだろう。
もう少し考えれば人生を共有するところまで行くのかもしれないが、そこはまだ分からない。とりあえずBrain Computer Interfaceと呼ばれているらしい脳とコンピュータをつなぐシステムがどう発展するか。ややマッドな熱意が感じられる記事が「第88回 コンピュータを脳につないだら - @IT」。もっと直接的に「意識」と関わってくるかもしれないのは「WIRED VISION / 神経細胞を仮想環境に接続――「意識」は生まれるか」。もう一度動物機械論(ただし今度は人間も入れて、古典的決定論は拒否)やオートポイエーシス論が帰ってくるかもしれないし、「水槽の中の脳」の水槽は実は頭蓋骨でしたということになるかもしれなな…と考えた。こういうことを考える議論、何というのだろう。メディア論だとマスメディア論と紛らわしいのだけど…。
----- というか大雑把な話しかできない。 [戻る]
- メディアと社会システムは相即不離という論も、企業の利潤追求がこうしたメディアを拡大発展させたという論も正当性はあると思うが、今は措く。 [戻る]
- もっと言えば映画の登場人物になるほうがいいのかもしれないが、それは映画を見るという体験ではなくなる可能性があるし、いざ登場人物になったら見えてくるのは監督の怒った顔とカメラだというオチになりそうなのでやめておく。表現者は受容者の意識をコントロールすることはできず、ある印象を引き起こさせようとすることしかできない。 [戻る]
- ジキルとハイドがそれぞれ夜と昼は「自分が消滅する」ことをどう彼らが納得しているのか、私は知らない。しかしおそらく彼らはお互いのことを知っているだろう。つまりお互いにとってもう一人の名前で呼ばれることがあるだろうから。 [戻る]








































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