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ログ型、日記型、コンテンツ型のブログ

土曜日, 9 月 15, 2007 at 18:52:10
カテゴリー: web, 考え事

 書きたい・あるいは自分の中で書かなければならないネタはあって、一方でいろいろなサイトを見て感心したりブクマしたり、またリアルで予定が詰まってたり体調が微妙に悪かったりするのでなかなか書けない。時間が足りないってのはしばしば単なる言い訳なのだけれども、ブログにそんなに力を割けるかというと本業ではないので云々。とりあえず前のエントリを書いたあと、「芸術」的表現/「エンターテイメント」的表現/いわゆるマスコミ・マスメディア的論調/様々な階層を持つブログ、これらをいっしょくたに論じることは、利点もある一方害もあるかな…というか乱暴に過ぎるかと思った。

 で、これはたぶん使い古された議論だと思うけれども(「たぶん」というのはその界隈の議論をよく知らないから)、「ブログ論」、あるいは「ソーシャルメディア論」めいたものをぼんやり考える。ソーシャルではないメディアというのは存在しないと思うけれども、今物理的な媒体はとりあえず電波(テレビ・ラジオ)・紙(新聞・雑誌)・電子(インターネット)なのかな。規模は大小ある。で、これは一つの意見に過ぎないが、ブログは一つのメディアなのではないかと思う。その目的もごく私的な場合もあるし、ビジネスや団体のお知らせに使われるなど公的な場合もある。

 もっとも極端な場合には自分で書いて自分で読むだけのブログが考えられる…しかしこれはローカルに置いておくのと変わらない。むろんサーバーが自前でない限りそこで「複写」が行われて、管理者が見る可能性があるから著作権がどうこうとか、ローカルに置くのではないから端末さえあれば空間的にはどこからでもアクセスできるということはあるけれども、「自分しか見ない」という意図した目的においては変わらないだろう。他方、そうでないブログは原理上誰にでも見られる。内容にも注意する必要が生じる。

ログ型

 前のエントリではその内容面で役立つ・役立たないをめぐって書いたのだけれども、形式的に「ブログはログだ」というところから出発してみる。たとえば「私は今日の0:00:00.000…から23:59:59.999…までに何歩歩いたか」を毎日記録し、公開しているブログがあったとする。呼吸した回数、瞬きした回数、食べたもののカロリー…でも構わない。それは正確で間違いなくきわめて個人的で「オリジナル」なログだが、ではこうした記録をブログというメディアに載せて役立つかというと、普通はかなり特殊な条件がないと役立たない。たとえば100年後、2000年代初頭の人類はどういう生活を送っていたかについての研究者にとっては、こうしたコンテンツはかなり魅力的に映るはずだ。しかし同時代のほとんどの人には無益だ。実際これだけがコンテンツのブログを私は知らない(はてなグラフでやっている人は見たことがあるが)。むしろこれは将来医療機関や行政機関が統計をとるのではないかな。

日記型

 もう少し進んで、客観的記録ではなく「日記」形態のブログを考える。割と多くのブログがこの範疇に入るのではないだろうか。つまり最近見た映画だとか、聴いた音楽だとか、行った場所だとか、食べたものだとかの記録。考えたことやあるサイトを見て面白かったことでもいい。この種のブログは書いている人に興味がある人か、たまたまあるエントリに書いてあることに興味がある人にとってしか有益ではない。そして現代のほとんどの人にとって、知らない人その人のことはどうでもいいし、ほとんどの人はあまりに多くの人を知らないということだ。私は人間を何人知っているだろう?そのうち何人に関心を抱いているだろう?1万人も名前を挙げられる人はそうそういないのではないか。そして1万のブログは存在するけれども、1日に1万のブログを見る時間は生身の人間にはない。「世界に一つだけの花」は無数にあるわけだし、全てを一つ一つ全体として愛するわけにもいかない。花だって注目されるのは花の部分だけだ。さらに、役立つものが今あなたの知っているブログとは限らない。もう死んでしまった人の本のほうが役立つこともあるだろう。もちろん、ここでの同好の士/ライバルとの出会いを楽しむ人たちもいる。

 有名人(これはリアルでの「有名人」も専らネット上での有名人も含む)のブログの場合は例外的に強いメディア的な力を持つと思うが、それでも電波や紙のものに比べるとまだ圧倒的に弱い。弱いから多くの人にはチェック対象にならず、チェック対象にならないから力が強くならない。が、これは「チェック対象をわざわざ探さなくてはならない」というハードルが下がることで解決できる問題かなと思う。リモコンでチャンネル変えるくらいが便利なのだ。

コンテンツ型

 さてこうした「日記」とはまた違って、「コンテンツ特化型」とでも言うべきブログを考えることができる。そしてこれは単なる知り合いだけではなく、ネットで情報や面白いことを探している人に継続的に役立つブログになる可能性があるのではなかろうか(これは「日記」のようなブログでもカテゴリごとにフィード配信することである程度解決できるかもしれない)。しかし同時に、公器であるメディアとしての役割が求められることになる。つまり「ブログを書いて生活を豊かにする裏技」でいみじくも「事業のための経費」という言葉が出ているように、ここからは体験者兼記者兼編集者兼校正者兼広告担当者兼苦情処理者としての執筆作業が始まることになる。実際は最初からここまで肩に力を入れる必要はないだろうけれど、結果としてはそういう作業をしていることになるわけだ。そしてそうである限りそれなりに多くの人(1)に有用な・関心を持たれる情報を配信する必要があることになるのであって、単なる記録ではすまなくなる。こうしたブログは結果としてログであっても、行為としてログなのではないだろう。そしてこの段階で話は前のエントリに書いた「有益な表現・無駄が多い表現」の話につながる。また配信しようとする情報とメディアの物理形態がマッチするかどうかも問題になるだろう。PCの画面では長い文章を読みにくいし、ブログの「更新」という作業にあまり似合わない体系的な知識・記述というのもあるだろう。

 …今回はとりあえずここまで。うん、一部は明らかに検索エンジン最適化系の話と被っている。ところで「行為としてのログ」、つまり主観的な自身の記録はもはやいわゆるブログ・日記だけではなくなっているのではないかな。単なる予感だけど。ミニブログなりソーシャルブックマークなりに移行しつつあるように思う。

 関連して思ったのだけど、「私はXXXX年XX月XX日XX時XX分XX秒からYY秒間ZZした/感じた/思った/…」を一生涯ログを取り続けることができるとしたら―つまりどうにかして一種の神の視点から記述しつくすことができたとしたら―、その時「私」は固有名詞になるのだろうか?つまり主観的記述を極めて緻密に繰返すこと。あるいはこの瞬間に失いつつある想念・感覚・時間の記録。直感的には言葉では零れ落ちるものが多すぎるように思うし、「記述しつくす」の意味がわからないけれど、「種のイドラ」とある特定の言語の中では固有名詞になれるかもしれない。モナド論や分析哲学にこういう議論があると思うけれど、どうにも暗い。「理想」のライフログとしては意識を丸ごと記録すればいいのだろうが、それにはテレパシー的なものと対応したメディアが要請されるだろう。

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  1. これがごく少なくても―実際にはゼロでも―プチメディアが成り立つのがインターネットのいいところだろう。 [戻る]
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