「表現」することの「難しさ」
2007/09/11 (火) 18:52カテゴリー: web, 考え事
「文化的創造」についてちょっと考えたことがある人なら誰でも思い当たることなのだろうけれども、自分の頭で考えたことなので記録しておく。
ふとしたことから『CONTENT’S FUTURE』の松岡正剛氏の部分をネットで読んだ。
[松岡氏]テキストの文化には、「読む文化」と「書く文化」の2種類があるわけです。テキストのメディアを、書くメディアとして見るか、読むメディアとして見るか。書物や雑誌の全盛期は「読む文化」だけだったわけです。ところがブログ以降は同時に「書く文化」が加わった。これがメディアの変化としては大きいんですね。小寺信良×津田大介『CONTENT’S FUTURE
』(翔泳社、CCライセンス) 引用は こちら のページによる。
対談ではこの後にも注目するべきところが多い。さてこの発言についてはまったくその通りなのだけれども、「書く」という行為も含めて表現全般―小説でも、音楽でも、映画でも―について考えると、なにもかもが新しいなどということはほとんどなくて、どこかしら既にどこかで行われたことであるかのような感覚に襲われる。その意味では表現の媒体・表現の手段をメタ的に生み出すことだけが真に「新しい」のかもしれない。
もちろん「既存」の枠組みの中でその可能性を真剣に探り続けている人がいることを私は知っている。つまり「本当に新しいこと」を模索している人たちはいて、彼/彼女は今まで行われてきたことをすべて洗い上げて、その上で現代的に意味のあるものを表現しようとしている人たちだ。そうした人たちは活躍を続けて欲しいと思う。しかし私のように単なる趣味でブログを書いて表現している人間はどうだろう。
一般的に考えれば、私の文章がなんらかの意味ある情報をもたらす人もいるしそうでない人もいるだろう。これは当たり前で、ある時出会った一文が天啓となる人もいれば単なるノイズで終わる人もいるという状況の中で起こる出来事であるに過ぎない。ここで表現・情報の受け手として二つの(やや極端な)立場をおいてみよう。自分にとってなるべくもっと有効な情報群、様々な表現群を得て行きたいと考える立場と、ノイズが多いままでもいっこうに構わないと考える立場である。
いま後者は措いて前者について考えると、あまりその人にとって面白くない表現が溢れているものは「つまらない」という烙印を押され、もう二度と顧みられることはなくなるだろう。もう少しその人が親切で、たとえばある小説について「それはドストエフスキーがもう表現したことだよね。それもドストエフスキーはもっと先まで進んでいる」という趣旨のコメントをしたとすると、作者はギャフンとなるだろう(1)。同様に「それは既にタルコフスキーが」「土門拳が」「ホメロスが」「シェークスピアが」「龍樹が」「チャップリンが」「和泉式部が」「ニジンスキーが」「スクリャービンが」「光琳が」「モンティ・パイソンが」「ムハンマドが」「モンテーニュが」「荘子が」「デューラーが」…と言い続けることができるだろう。なるほど、歴史の風化に耐えて残った一級品たちは今なお新しいし、味わったり検討して取り組む価値のあるものだろう。そしてそうした作業も数多く行われてきた。
さらに上記のようないわゆる「芸術」だけではなく、表現の一部である言論―「書くこと」―においても同様のことが言えるだろう。言論においては、そのリアクションの容易さにおいて他の表現より素早く同時代の様々な出来事へ反応できるように見える。それこそ30分も経たないうちにマスメディアの流すニュースに対する反応が可視化される状況が出現してきた。もちろんその様々な反応と記述を楽しむ立場もありうるが、その事象がもたらす結果についてへの展望や、その事象の背後にある状況・社会変化などへの洞察まで含まれて初めて有効なものになるという見解もありうるわけだ。
そうなると、前者の「より有効な情報群」を求める立場の人々にとっては既知の情報、あるいはその劣化版しか繰返さないとか、ノイズが多すぎる表現者、表現媒体は無意味ということになる。もちろん、私はこの表現の「無意味さ」を直ちに糾弾し非難するものではない。表現に「より有効な情報群」を求める人々だけではないし、万人にとって等しくつまらないものというのはまずないだろう。またなにか具体的な攻撃目標が念頭にあるわけでもない。ただ自分の表現について考えているだけであることは誤解なきよう注記しておく。
こう考えてくると「真に新しく意味あるもの」を作る・表現するのははてしなく難しいことが実感される(2)。歌手でも学者でもいいが、なにかしら表現のプロとは正にその次元で闘っている人たちのためにある言葉であり、そうした人々が、そうした人々だけがある種の「価値」をもたらすとも言える。その一方、ブロゴスフィアで言えばインフルエンサー、古く言えば目利きということになるだろうか、そういった人々が表現を行う次元もあるだろう。いかに優れた表現であっても、それを必要としている人に届かないということはありうるし、まだあまり知られていなかった傑作が世に明らかになるという事態も十分に起こりうることだ。
しかしこの「目利き」についても、SF的に考えると「こういう人にはこういう表現・情報・文章が重要だろう/有益だろう/面白いだろう」と推測するメディアが生まれることを想像できる。最初はそれは統計的な次元に留まるかもしれないが、いつしかそれが「導き手」にならないとは言えない(3)。ここに一つの問題が生じうる。つまりそれは己れの文章を読むこと、己れの表現を理解することが、それを読み体験する人にとって単なる人生の無駄であり気晴らしにさえならないと告げることが要求される時が来るかもしれないということだ。いわば「私という無駄」。
だが「無駄」というのが本当に無駄だったかどうかわかるのは―こと人生においては―事後的であ(りう)る。この構造は人間の時間体験に関わってくるし、「無駄が許せない」という強迫観念、また上記の素朴な真理観、つまり理想の人生、理想の表現経験があってそれに辿りつく最適の道があるという考え方も検討されなければならないだろう。そもそも「無駄」だけの情報・表現のやり取りが排除されるべきかどうかが問われなければならないのかもしれない。「1+1=2」をひたすら繰返すということ。「無限は数え終わらない」ことを実証する人生。…いや、社会にとっての「無駄」を探索するところからか。まずはこうした思考の先人がどの辺りにいるのかを探さなければならないが。
最後に「ブログ論」という土俵でこう考える人もいることを付記しておく。「北の大地から送る物欲日記 - ブログはそのとき思ったことを書き記し続けるのが興味深い」(id:hejihoguさん) ここでは 「その時点での主張」ということがポイントだろう。それを振り返ることで自らの立ち位置を確認できることに意義を見出すというあり方。ブログに対する態度は多様であっていいと私も思う。なお、さらに進んでブログと「馴れ合い」の議論ともこのエントリは関係するように思うが、また違う話になるしどういう議論があるかよく知らないのでやめておく。なんとなくだけれども、ブログよりTwitterなどのミニブログのほうが馴れ合いには向いているだろうと思う。
------ これが「親切」かどうかは難しいが、その問いは論じない。 [戻る]
- これはいろいろな表現のアーカイブ化が進み、検索が容易になりつつある現代に尚更際立つ問題かもしれない。 [戻る]
- ただこれは一体どこに「導く」のだろうか?素朴な真理実在観! [戻る]




