才能、ブランド、失敗 - 9月1日 昼の部
2007/09/02 (日) 23:36カテゴリー: 日々
この日は昼間は大学のサークル時の友人と会い、夜は大学の学科の同級生と飲み、そしてその二次会では世代の離れた方お二人と新しく出会った。それぞれとても面白い話が伺えたので、昼の部と夜の部でエントリを分けて書いておく。なお夜の部は こちら 。
昼間に話した大学の友人は働き始めて数年だけれども、営業的な仕事でクライアントとの間に立っていることもあって毎日毎日帰宅は遅いようだ。苦労しているなあと思う。話はあっちに飛んだりこっちに飛んだりで一貫した脈絡はなかったのでメモになってしまうのだが、ポプリのようなものとして書いておこう。
- 「コペルニクス的転回」
- 「才能」という言葉
- ふだんの暮らしと頭の中身
- 話のオチ
- ブランドと趣味
- 生産性と仕事の未来
- 失敗と成長、やり直せる時間
私が研究者志望から一般的な就職の志望に切り替えたことに「意外なんだよねー。その『コペルニクス的転回』はなんで?」と聞かれた。この話は何度となく聞かれたのだけど、内面的理由と外面的理由が混在していてスパッと答えにくい。とりあえず「気質はそうだったかもしれないけど才能はそうではなかった」とよくわからない答えを返す。性格が真面目でも研究者的な執心にちょっと欠けているというのはあるし、続けられない事情になったということもある。いずれにせよその「転回」は外面的には「転回」として評価されても、内面的にはあまり驚くに値しない。しかしそれもまた後から物語を私が整理づけているからなのだろう。ここからつながった「思想の主人公は思想家ではない」という話はとくに面白かった。思想の主人公は思想の語り手ではなくそれを生きる人である。それは物語の語り手/語り部と登場人物の関係と同じだろうか?
上で「才能」という言葉を使った。その後で「松岡正剛、蘇軾、そして教養」のエントリで書いたように今松岡氏の本を読んでいてそこでも才能の差を感じる、と言ったら「『才能』にこだわるね」と言われた。たぶんこの前のエントリで書いたことも心のどこかに残っていて、生まれの違いというのを意識していたのだろう(もっとも松岡氏もある時期は大変苦労されたようだが)。あるいは私も今捨てつつある「ありえた自分」に見切りをつけるためにそういう言葉を使うのだろう。「才能の不足」というのは便利な言葉だ。しかし、能力が満たすことのできなかった才能なんてありえるのだろうか?いや、もう骰子は投げられている。
「最近何に興味あるの?」という話で「就職先の業界と関連して日常生活だね~。人体にデジタルチップ埋め込む時代が来るのかとかさ」と言ったら爆笑された挙句に「形而上学」だと言われた。いや、まったく形而下なのだけど。(笑)「日常生活」というのは料理とか洗濯、掃除に使う言葉であって、ユビキタスやPC、テレビを介したネットとのやり取りに使う言葉ではないとのこと。ううむ、そうか、私の頭がズレているらしい。そして私の部屋は掃除が足りずに散らかり放題だ。
というわけで私の話はまとまりもなにもないことが多く「形而上学的」である。そんな私のために出された例えが「目玉焼きとスクランブル・エッグ」。「目玉焼きがいい?スクラブル・エッグがいい?」という質問に思想系に慣れすぎて妙に言動に慎重な私はこう答える。「目玉焼きは調理するのに何分、塩も醤油もかけられるよね、スクランブル・エッグは目玉焼きより短くて済むけど醤油は合わないね、それにレタスかなにかがあったほうが見栄えがよくなるけどレタスなんてあったかな?…」「で、どっちがいいの?」「ん?どっちでもいいよ」 …というわけで、話にはまずオチを持ってきなさいという有難いオハナシ。しかしこの「どっちでもいい」ことが私には沢山ある。(笑) それからここには「思想とかの文章にはさ、例がたくさん出てくるじゃん」という話もくっついたのだけれど、思想と例というのは案外本質的な関係があるのではないかと思う。なんのための例か、思考のプロである思想家たちが不用意に出すとは思えない。
共通の知人の親が「ブラックカード」を持っているという話で、そんなカードの存在を知らなかったので単純にへぇ、と聞く(このカードはこの日の夜の部でもたまたま話が出て「兵器も買える」云々だった)。全く気づかなかったがその知人は高いブランド物をさりげなくつけていたそうだ。私に見る眼がまったくなかったのだけれども、さてではブランド、特にファッションブランドはどこに力を持ってその力の出所はなんだろうという話になるが、あまり深まらず。しかしたとえば音楽のような趣味の方面に関してはファッションブランドのもつ力のようにはいかないだろう―たとえばクラシックやレゲエが他の音楽より優れているということはないし、結局個人の「いいものはいい」で打ち止めになる公算が高いのではないか―ということになった。勿論その「いいもの」とそう感じさせる機構がブランドと言えばそうなのだろうけれど。服ほど音楽は人間にひっついていないということだろうか、それとも富裕度を示す度合いとして音楽はあまり役立たないということだろうか?/ところで、男/女はブランドなのだろうか。
これは私自身よく消化できておらず話が拡散してしまい申し訳なかった。事務作業のシステム化、人間をロボット・コンピュータへの置き換えることによる生産性向上が進む結果、未来に「人間の仕事」はどうなるのだろうという話。経済に弱いというのはこういう時に痛い。私が説明するより生のエントリ群を読んだほうがいいだろう。というわけで「アンカテ(Uncategorizable Blog) - 「世の中は厳しい」なんて大嘘」「アンカテ(Uncategorizable Blog) - 誰もが最高級品を使える経済」「再説・マルクス主義2.0(前編) | bewaad institute@kasumigaseki」あたりをどうぞ。
どうにも失敗している、うまくいかない場合、なんでうまくいかないのかがわかる時とわからない時がある。後者でさらに悪い場合はなにがうまくいっていないのかすらよく分からない時。もはやなんとも手の施しようがない。ま、ここまでならよくある話。しかし同時に人生は短いのであって、選択を一つに限らざるを得ないことが多い。常に「ありえた人生」をなぐり捨てながら、あるいは捨てさせられながら年を重ねていく時、どこまで「よくわからない失敗」が許されるかは微妙なところ。このへんがなにか参考になるかも: 自己紹介作文「私の得意なこと、苦手なこと」
昼の部はとりあえず以上。ありがとうございました。楽しかったです。ここ読んでらっしゃるか分かりませんが、またいつかお会いしましょう。
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