『定義集』 ―「ニンゲン、キライ?」
2007/08/10 (金) 17:18カテゴリー: 本
田島正樹氏が今までの勤め先を辞すに際してこれまでの職場でいかに嫌われてきたかを振り返っている。いわく「人望がないどころの話ではない。すべての人から、程度の差はあれ嫌悪されているのはまず間違いのないところである。事務局へ足を運ぶと、人々の顔ににわかに緊張が走る。歩いていると、向こうからやってくる教員が目を伏せる。話しかけると、誰もが恐怖で蒼ざめる。そんなわけで、学内では私は、出来るだけ人目にふれないように、ひっそりと目を伏せながら歩くようにしてきた」と*1。嫌われやすい人、煙たがられる人というのはだいたい広い意味で「余計なことを言う人」だろう。その「余計なこと」が(集団にとって)つまらなければ本当に白い眼で見られるし、少し面白くても飽きられれば終わり。だから飽きられないくらいまで面白さを磨くか、面倒になって去るかということになる。「真理を見る人は二人いる。子供と狂人。」狂人ではなく愚者だったかもしれないが、この諺にも一面の真理はある。そしてそのシステムを権力の場にとりこんだのが王様付きの道化なのだ。王様がいない今、道化もまたいない―あるいは個々人の中に分散しているのかもしれない。
ところでそんな「嫌われやすい人」のほうが自分の周りにいる人たちのことをどう思っているかというのもまた様々あるだろう。その立場に不安を感じる人に宗教は暖かい。宗教は信徒を定義するから。そこまでの不安と不信に陥らない人は単に幸運なのかもしれないし、あるいは鈍感なのかもしれない。もちろん健康健全だとも言える。そんな中「「自分嫌い」が許される性」(しあわせのかたち さん)の後半に記されている少年のエピソードは印象的だ。「僕はキミの、そういうところが嫌いだ」と言い合える関係には一つの理想的な友情がある(そしてこの少年は今どういう人間になっているのだろう)。誤解されることはないだろうけれども、この「僕はキミの、そういうところが嫌いだ」と言った少年はけして「人間嫌い」なのではない。単にその人が嫌いなだけだ。それがどこにもいないとしても、彼は「人間」を信頼している。そして彼はまた真理を言う人である。さらに敢えて言えば彼は愚かであるが*2、彼を正当に評価することは誰にもできない。なぜなら誰も彼を評価する尺度を持ち合わせていないから。それは悲しむべきことだが、かと言ってどこかから尺度を探してくることもできない以上、私は嘆くことしかできない。
少年を孤高と呼ぶのは簡単だが、よく考えれば誰しもが孤高である(のではないか)。私の感じるあらゆるモノ・コト・ヒトは「私はお前ではない」と叫んでいる*3。だからアランは、友好的な信頼の最高の形には信仰が欠かせないと見抜いていた。信頼とは勇気ある振舞いである。
なぜなら、そのような信頼は証拠を俟たないから。また証拠に反してまでも信じるからだ。それはだまそうとする意欲をそぐ。たとえば、もし彼が言うことを心から、盲目的に、信じるならば、嘘つきはもう嘘をつくことができない。もしすべてのことが彼に託されていたら、泥棒はもう盗むことができない。美しい魂の試練がここにある。なぜなら、少しでも疑いの念が生じるとそういう経験はしくじることになるから。
神谷幹夫訳『アラン 定義集』(岩波文庫) 「CONFIANCE 信頼」p.53f.
アランにとっての信仰は「人間がその運命をつくり出すことができること」を「証拠なしに、否、証拠に反して信じようとする意志」である。それを支えるのは自由への信仰だ。自由を信じなければ自由は存在しない。自由を信じることは同時に自由を基準にした善悪を生み出す。そしてまた、慈愛と希望もまた信仰の対象である。前者は同胞が教養を持つ人間になることへの、後者は自然が我々に悪意がないことへの(同書「FOI 信仰」p.87f.)。こうした同胞が偶然的かつ意志的に作り出すものこそがアランにとっての社会なのだ。
偶然の側面と友愛の側面を持たない団体を、社会と呼ぶことはできない。社会契約とはただ、させられていることを好きなことと意志的にとらえなおしているにすぎない。ある契約の上に基礎づけられた社会は、真の社会ではない。ある銀行が破産の危機に瀕すると、みんなそこから預金を引き出し、銀行を見捨てる。真の社会は家族の上、友愛の上(アリストテレス)、家族の外延の上に基礎づけられる。
神谷幹夫訳『アラン 定義集』(岩波文庫) 「SOCIÉTÉ 社会」p.151
アランにとって人々はまず同胞だったのではないだろうか。それは彼が教師だったということも影響しているだろうが、しかし冒頭に引いた田島氏にも、「僕はキミの、そういうところが嫌いだ」と言った少年にも、友達は少ないだろうが、予感として同胞はいる。そしてアランは断乎としてこう言うのだ。
「MISANTHOROPIE 人間嫌い」
人間に対する愛で、騙されたと早まって結論しているもの。人間嫌いのなかには大きな希望と大きな失望がある。慈愛は人間嫌いにならないようにする誓いのようなものである。
神谷幹夫訳『アラン 定義集』(岩波文庫) p.114
むろん、こうしたアランの考え方は非難を受けるだろう。それは私の抜粋があまりに偏っているということもあるが、根本的には「大きな失望」でもって「人間」を見限る道があるからだ。アランの「OPTIMISME 楽観主義」の定義にはそうした攻撃を想定しているフシがある。
『定義集』の各項の一つ一つは短いのでそこでアランと対決する読み方もできるし、定義の網の目からアランと違ったものを生み出すこともできるだろう。一度自分が操り操られるさまざまな言葉を定義し更新し続けるという作業もなかなか乙なものだと思うが、その時参照項になる一冊。
*1:「ララビアータ:地の塩」
*2:「バカという人がバカ」という構造。この文に二つ出てくる「バカ」はまったく次元が違う。




