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デジタル転写問題 続きの続き

2007/08/01 (水) 22:20
カテゴリー: web, 考え事
kwout this!

前回のエントリの続き。

「わたしはあなたの結果である」

 「メールを出さなければ電車に乗り遅れられるのか、誰が電車に乗ったのか、愛は終着駅で致命的出会いにたどり着くのか」と題したエントリでishさんが「わたしはあなたの結果である」というブルース・リーの言葉を引いている。典拠を知りたいものだが、この言葉が意味するのは私から見る私のイメージ(「自意識過剰」の時の「自意識」)などというものは誰にも共有されないということ、もう少し言えばそんなものは社会的には存在しないということだと思う。共有されてたまるかと思う一方、ここから導かれるのは、社会生活においては(むろんネット上の人格でも)「他人から見た自分」という像の描き方、そしてその像の把握とそこから推測した振る舞いが重要になるだろうということである*1。もちろん一般的な「他人」などというのはどこにもいない。いるのは固有の名前と背景と人格と言葉遣いを持つ一人一人の「あなた」だ。その意味で「繋がりたい私の選択*2」でchanmさんが「自分」について述べておられるのと一種の並行関係で、「他人」(あるいは「他者」)と言ったときにどのレベルでの「他人」を意味しているのかが問題となるわけであり、議論ではなく会話などのシーンではしばしばどのレベルでの「他人」を「相手にしているか」が問題となるわけであり、その結果どのレベルでの(言い換えればどういうアスペクトの)「他人」から自分を感知してほしいかというところが問題となるわけだ。

 そうした自分の像の描き方(そしてまたそうして描く像の受け取られ方への予想の仕方)には上手い下手、穏当に言えば比較的一般的かそうでないかの度合いがあって、それがいろいろ日常の楽しい問題を引き起こすように思う。こう書くといかにも粗雑だが、私自身そうした描き方は下手であるし、総論でなく各論にはあまり関心がないし本題では無いので省略(とここで書くのも厳密に言えば一種の振る舞いであり宣言であるがこれも省略)。なお誤解なきよう付言しておくと、ここでは「制服が人間を作る」という類の公共的な話ではなくもっとプライベートに近い次元の他者を想定している。

様々なメディアと自分の描き分け

 ともあれ重要なのは、メディアによってこれらの像の描き方の手法は異ならざるを得ないということだ。我々にとって一番身近、というか正に「身についている」のは視覚というメディアだろう。目に飛び込んでくる人間を我々は様々な側面から一瞬にして分析する。どういう顔つきか、肌の具合や色はどうか、表情はどうか、服の種類とグレードは、髪型や髪の色はどうか、アクセサリーはどうか、どういう姿勢をしているか、仕草は、そしてそれは何を意味するか…我々は一瞬で判別することができる。それらからどういう社会的集団に属すかおおよそのところを理解する(が、もちろんこのフィルターは人によって差がある。例えばファッションのブランドをどれほど解するか。あるいはルワンダのフツ族とツチ族を見分けられるか、など)。視覚の次には聴覚が来るだろう。話す内容より声の調子が話の印象を決めるという説もあるそうで、それなら宗教家やセールスマン達は話術や発声を訓練しているに違いない。

 しかし話されたのではなく書かれた言葉というのは、今までのところ上のような意味での視覚・聴覚を越える射程を保ち続けている。文字と紙という媒体はその人の話している仕草や話し振りをそのまま伝えることはできないが、その様子と内容を示す言葉によって(あるいは書くのに使った道具や筆跡などによっても)言葉なりの仕方で時空を隔てて話や状況を伝えることができる。録音・録画が可能になってかなりの時間が経ったわけだが、まだこの紙や文字という媒体はなくなっていない。話すようにそのまま書くという人はほとんどいないわけで、書き言葉は話し言葉とゆるやかに区別されているし、文章術、文章を書く訓練というのも盛んである。その訓練の目的はかつは正確な伝達を狙う明確さであり、かつは読み手への印象づけを狙う文学性であるだろう。

 ではそうした文章によって描かれてきたのは自分自身の記録、あるいは自分自身そのもの(という像)であるかというと、そんなことはない。そこで描かれてきたのは時に状況報告であり、時に国の歴史であり、時に架空の物語であった。もちろん自分自身を文章で記述することもできるが、それは結局言葉が許す限りの私でしかなく、またその描かれた言葉の受け取りと解釈とは、ある程度予想はつくものの、その予想を裏切る可能性を常にはらむ者としての他人に最終的に委ねられている。ブログの中でも私事を綴った日記中心のものはそうした条件の中で自身をどこかの未来に伝えていく役割を持つ。ただそこには同時にむやみやたらと言っていいほどのオープン性もあるのだが。そしてまた「ミーム」という便利な言葉を使ってこの事態を表現することもできるだろう。

 この意味で自身をどこかの未来へ伝えるものとしては文章や写真、映像が代表的なメディアだが、たとえば自身の伝達を意図したわけではないちょっとしたメモ、蔵書へのさまざまな書き込みや手垢、使いなじんだ食器や家具はこうしたメディアになりうるだろうか。そうした物は生活の痕跡であり、そうしたものから人柄がうかがわれることもある。これはその人が「自身の像のために」と意図したものではないためにかえってその人の実像を描き出すものかもしれないが、しかしここには伝達しようとする積極的な意思が欠けてしまっている。しかしよく考えると、「伝達しようとする積極的な意思」がなくとも自分自身が他者に勝手に受け取られあるイメージを持たれるということはありうる。公共的なレベルでそれを示すのは制服であり肩書きであるわけだが、より日常的な次元ではちょっとした言い回しや言い方、振る舞い、所作、服装などにそれらが現れるだろう。強烈な意識のもとにそうした「自分の像」をコントロールする人もいるだろうが、そうした「見られる自分」へあまり頓着せず「ただ生きている」に近い人もいるだろう。それをツマラナイと見るか自由と見るかはそれこそ人次第だ。おそらく「自己PR」の難しさもここに関連する。

痕跡とログ

 …話がずれた。文字、音声、運動を伝える諸メディアによって自らの描き方はそれぞれ異なるだろうという話だった。そしてそうした積極的な意図がなくとも、たとえば部屋への住み方、棚や机の片づけ方、情報や雑誌の整理の仕方、あるいはまた料理の作り方、用事のために取ったメモなど諸々のものがその人を伝える/一つの像を描くよすがになりうるだろうということだった(有名人の本棚を紹介する記事、あるいはまた故人の遺品整理を考えればよい)。

 しかしこうした「意図せざる自己描写」あるいは「自らの痕跡」を伝えるのに有効なメディアは今までなかった。例えば現代では「この5年間に何を買ったか」はその人の生活・人となりを知る上でかなり重要だと思うが、そんなものを記録している人はいなかった。逐一覚えている人もいないだろう。原理上はレシートがあるので可能なのだが、それにしたって買ったものをいつどういう風に使ったかまでは記録できなかった。そして今では買った・使った・感じた・考えたの記録が少しづつ可能になっているように思われる(前エントリであげた様々なサービスなど。Ustreamを加えてもよいだろう)し、その度合いは漸増しているように感じる。

 むろん、そうした生のログを人が見たがるかは別問題だし、結局そうしたログを見せられたところでその人の嗜好や生活ぶりが分かるだけだ。ここにも「描き出される自分」という局面があるわけで、相も変わらず「わたしはあなたの結果である」。強烈なものであれ漠然としたものであれ、私がもつ私のイメージもまた共有されない。というより、そもそもこれは原理的に共有されない。「私がもつ私のイメージ」は私しか知らない人生の歩み、思念の結晶としての「私」の造形であり、現れては去っていく誰かに見られているときの「私」という像、誰かと話している時の「私」という像ではないから。

世界に存在する私と、私が存在する世界

 結論に入ると、まず佐々木氏の言っていた「私」、つまり「デジタルに転写された人生は、イコール自分となるのか?」という問いでの「自分」というのは、やはりもともと共有されえない「私がもつ私のイメージ」レベルの話だったのではないだろうか。ある種の歪んだ欲望として誰かに自分の頭の中を覗いて欲しい、できれば同化してほしいという欲望があったとして、それが現実として可能になることを望んでいるように思う。そしてそんなことは不可能だ。私が残せるのは私の言葉であり映像であり購入履歴であり生活のログにすぎない。世界のどこにも他者のどこにも私の意識そのもの、意識の運動は残らない。それが死ということだ*3

 そしてまたid:mindさんのおっしゃる「コピーした後で、環境セカイ/社会の既存の枠組みの中の所定位置に入換えないと、「自分」にならない」というのも、「所定」というのを自らがいかに推し量るが問題となるのだ。それは一面では制服であり肩書きであるわけだが、日常場面での多様なグループ内での立ち位置もそうであり、そしてまた「私がもつ私のイメージ」もそうである。それらから想定される「自分の像」を転写しなければ「自分」にはならないわけだが、ここにはおそらくある滑稽さが生まれることになるだろう。しばしば自分が納得する像としての「自分」と他人から見られた「自分」とはそぐわないだろうから。

 最後に付け加えておけば、こうした「私がもつ私のイメージ」、また「自分の像」は不変のものではない。なにより人間は年を取り、様々な経験もそこで積んでいくものだ。様々な人との出会いと別れもある。自らも変化していくものだということ、そして「自分の像」と実際の他者からの理解が合うようになったりずれるようになったりすること、それが人間の生活なのだ。

*1:cf. 鷲田清一氏による、子どもは女装して「女の子」になるという見解。d:id:gamma_ut:20050821#1124622000

*2d:id:chanm:20070707#1183799300

*3:もちろんこれは追悼という行為を否定するものではない。

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