豊かな社会って何だろう
2007/07/26 (木) 16:50カテゴリー: 本, 考え事
財産とはなんだろうか。最近電車の中で、あるいは寝る前に読んでいるアランの『定義集』によればこうだ。
FORTUNE 財産
この言葉の二重の意味[富、運;訳者注]には、学ぶところが多い。そこでは富の起源が純粋な偶然に帰されている(それが財産という言葉の本来の意味である)。そこには語の深い意味が示されている。なぜなら、ある運との出会いなくして仕事は豊かなものとならないから。そういうわけで、財産が正しいかどうか問うことは、くじ引きが公正であるかどうか問うことである。
『アラン 定義集』神谷幹夫訳、岩波文庫、p.88
日本には「金の切れ目が縁の切れ目」という諺もあることだし、アランの定義にある「運」を「縁」といい換えても良いかもしれない。あるいはひっくり返して「縁の切れ目が金の切れ目」と言うこともできる。あらゆる縁が絶えてしまったら金も無くなる、ということになるだろうか。
ところで、内田樹氏が最近のエントリでこんなことを言っている。
「金持ち」とは定義すれば「金のことで心を煩わされない人間」のことである。
格差社会って何だろう (内田樹の研究室)
もちろんこれには実際の所得水準が低いような人も含まれている。だから内田氏は「金持ち」をエピキュリアン的な意味で、アタラクシアを求める者として用いていると言っていい。その証拠に前後はこうなっている。
私がつねに変わらず陽気でいられたのは、年収なんか人間の価値とはぜんぜん関係ないということを深く、魂の底から、「確信」していたからである。
「金持ち」とは定義すれば「金のことで心を煩わされない人間」のことである。
そういう意味では私は貧乏なときもずっと「金持ち」であった。
格差社会って何だろう (内田樹の研究室)
このエントリを最後まで読めば分かるとおり、内田氏にとって「人間の価値」という言葉はある種の知的水準を意味するらしい。この言葉に普遍的に通用する意味があるのかどうかという問題がすぐに立ち上がるとは思うけれども、それは措いて、もう少しこの議論を徹底させたい。
日本は「豊かな社会」と言われているが、貧富の差があることは論を俟たない。貧しい人はそれだけで苦労が増え、苦痛も増える。富める人が心配しなくていいことも心配せざるをえない。不安はそれ自体として膨らむものであるから、貧しさは雪だるまのように貧しさを呼ぶ。むろん生老病死は人間の定めだから富める人にも悩みが尽きることは無い。そこで悟りを勧めるのが仏教であるわけだが、病と死は避けられないものとしても生まれ生きること・老いることあたりで無理に悟る必要もないように思う。うまいものは食べたいしきれいなものは見たいわけだ。何がうまいものか、何がきれいなものか、何がほしいものか・必要なものかは人によって違う。赤ん坊にステーキを持っていっても仕方ないし、刺身を食べたい人にカレーを持っていっても仕方が無い。ここまでは良い。
しかし不思議なのは「これは良いものですよ、おいしいものですよ」と言ってくるので「ではそれを下さい」というと金が必要になることである。そうなると貧しい人(正確には富める人も)は自分の財布と相談しなければならないし、いろいろ諦めなければならないことになる。その人の目にも耳にも口にも鼻にも手にも入らないのに、ただそれが良いものだということだけ聞かされる。より金がある人はそれを手に入れられるそうだ。そうしたものが増えていく。そしてそれが豊かな社会だと言う。
これはおかしい。本当に良いもの・優れたものならみんなで使ったほうがいいはずだ。良い道具が世の中を良くすると言うなら、それが行き渡っているほうがいいだろう。欲しい人にはタダで配ったら喜ばれるはずだ。材料が必要というなら喜んで集める人、集めるための機械を作る人も出てくるだろう。すばらしい芸術ならもっと多くの人が感じるべきだ。タダがいいだろう。「美味しい」と自慢するくらいなら食べたい人にはタダで食べさせたらよいではないか。赤子にミルクが最高の食べ物であるのと同様に、美味しいものにどうしても飢えている人にはそれが最高の食べ物であるはずだ。入る予定も必要も無い空き家は家が無い人に与えたらいいだろう。感動は、笑いは、喜びは共有されるべきだ。苦しみでさえも共有されうる時があるのだから。「良いもの」と喧伝しながら体験したい時には手が届かないなんて、矛盾している。馬の前にぶら下げられたニンジンとなにも変わらない。バカにしているのか。もちろん「新しくて便利な良いもの」なんて別に要らないという人もいるだろう。今どおりの生活、あるいは限定された不便さに魅力を感じる人もいるだろうが、ここではそれも含めて「良いもの」と考えている。
ここで反論があるだろう。金がまさにそうした様々な欲求を満たすためのフィルタリング装置として働いているのであると。人は欲しいものにはそれだけ金を出すのであるから、それで世の中が成立しているのだと。だがこれはまったく話が逆だ。財産は限られているのだから、それでは世の中の不満が溜まるだけなのだ。欲しいものが安く手に入れば誰だって嬉しいではないか。逆に要らないものはどれだけ高くてもいい。私にとってはたとえば豪華な装飾品がそうだ。それに何がおかしいって、私と価値観が違う誰かと私の間であるモノの値段が共通しているというのがおかしい。私がまったく知らないし欲しくもない何かに無上の喜びを見出す人もいるはずで、その人にはそれを十分に与えるべきだ。金というシステムは不便すぎる。
こう考える私は狂っているのだろうか?そうかもしれない。それに例えば犯罪を無上の喜びとする人がいたらどうするのかという問題もあるし、性善説に拠りすぎている、意志の弱さを見すえていないとも言われるだろう。それにこれは世界中が一挙に変わらないと損をする人が増えるだけだろう。あるいはひょっとしたら「自分探し」が増えるだけかもしれない。貧しさをまったく捉え損なっているという意見もあるかもしれない。あるいは「貴族趣味」だと、奴隷制を復活させるつもりかと言われるかもしれない(優れた機械を奴隷として使うことにはいかなる問題が潜むか)。確かにそうかもしれない。そしてこれらへの十分な答えはまだ無い。文明史や経済史をロクに解しない私の頭では見つからないかもしれない。だからこうした世界も可能ではないかというファンタジーに留まってしまう。しかしそれでも、私はこれが「豊かな社会」ではないかと思うのである。1000年2000年先にはこうした世界がありうるかもしれない。




