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自らをデジタルに転写できるかという問いについて

2007/07/10 (火) 13:27
カテゴリー: web, , 考え事
kwout this!

ウェブ社会をどう生きるか前のエントリで西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』に関連してこう書いた。

それからGoogleに取り込まれかねない「自分という生命体の存在の”意味”そのもの」(p.65f.)といった表現も何を意図しているのか分かりにくい(しかし引用されている佐々木俊尚氏の言及も併せてこれはまたこれで面白い問題)。

孫引きになるが、佐々木俊尚氏の記述は以下の通り。この文春新書の本は私の部屋を漁れば出てくるはずだが、今はそれができない。

自分の人生が、どれだけデジタルに転写できるのか? デジタルに転写された人生は、イコール自分となるのか?
  佐々木俊尚『グーグル Google』文春新書、2006年、p.210(西垣 前掲書による)

メモ的で乱雑なものになるが、この問いについて思いついたことを記しておきたい。

  1. まずこの問いは現代のデジタル化の状況にあわせて誕生した問いではあるが、おそらくデジタルかアナログかは本質的ではない。佐々木氏の文章での「デジタル」を例えば「手書きの図版」や「レコード盤」に置き換えても大きな支障はないはずだ。
  2. そもそも西垣氏の立場からすれば「情報は伝わらない」のであるから、自分にとって特別な意味を持つもの(たとえばある時のスナップショット、ある日の日記など)は普遍的な重要性などは持たない。それは場合によっては自分一人、あるいは家族、あるいはまた別のグループで「それなりの」意味を持つに過ぎない。しかもその意味の受容は各人によって異なる。もし、普遍的な重要性をもつと考えられているものがあるとすれば、それは社会やメディアがそのように価値づけているからに過ぎない。
  3. 自分という生命体の「存在」をもしそのまま伝えたいとすれば、自分に体形などを似せ、自分と同じように振る舞い同じような声色で話すロボットを作ればよい。ここで「生体的なコピーを作ってそこから意思を排除する」といった思考実験は意味がない。と同時に、そうしたロボットは当然自分以上の創発性を持たず、あくまで自分が為した行為を繰返すだけである。だからそれはオートポイエティックなものではないが、だからこそ「存在」をそのまま伝えることに成功しているとも言える。
  4. 一方やはりそれではダメで、自分という生命体の創発性、オートポイエティックなシステムそのものを「複製」しなければ「存在」を伝えたことにはならないという意見もあるだろう。だがそれは土台不可能である。自分という存在者はあくまで一回的な環境と歴史の中に生まれ育ってきたのであるから、それがそのまま反復されるのでない限り同じような創発性を持った生命体が生まれることはない。そしてこの条件は実質上不可能である。覆水は盆に返らない。
  5. しかし問題は自分という生命体の存在の「意味」だという。まずそんなものはそもそも存在するのか。仮に存在するとして、デジタル-アナログを問わず、それを伝達できるかどうか問う意味はあるのか。意味があるとして、それを伝達することは可能なのか。これが問われるべき問いである。
  6. 自分という生命体の存在の「意味」についてだが、西垣氏の記述はもっぱら自分にとって特別な意味を持つ物(日記や写真といった自分の過去、生きる過程の足跡、想い出の記録)に触れているだけだ。とりあえずそうした物から確認できる「意味」だとさしあたり推定する。それはたとえば「私って生き(てい)る意味あるのかな…」と一人呟く時の「意味」と考えても良いだろう。これに対しては私は自分の生の歴史/未来にある物語を設定できるかどうかに懸かっていると思うので、そうした物語を信じる人/好む人にはそうした「意味」はあるし、信じない人/嫌う人には無いと考える。ただこの物語は唯一絶対のものが一人の人に一つあるのではなく、大小のものが複合的に絡み合っているものだろうと考える。チョ・スンヒが「キリストのように死ぬ」と言って死んだのも、彼にとって「意味」はあったのだろう。
  7. とすると、そうした「意味」はあくまで(「意味」があると考える人の)個々人の中で考えられ存在すると思われているものである。断っておくと、その価値を否定する資格も意図も私には無い。ブログを書くことはしばしば自己愛の発露ではないか?:-)
  8. ではそうしたものを伝達できるかどうか問う意味はあるのか。これはおそらく「愛」の問題と関連する。なぜなら「愛」はしばしばその対象をまるごと理解したいという衝動を伴うものであり、その理解には当然その対象自身が考える自らの「意味」の理解、その伝達も含まれるだろうから。となるとこの伝達を問う意味は全く無いとはいえない。
  9. ではそうした「意味」を伝達することは可能なのか。私はこれは相当難しいと考える。いま「伝達」の一つの理想的あり方は完全な共有だとする。上で述べた通り自己理解などは各々の中での物語によっている。仮にそうした物語を自他で共有することができたとしよう(たとえば「理想の夫婦」「ダメ男」「****国民」「タクシー運転手」「科学者」「ギャル」等など)。しかしそうした大小の物語から受け取るニュアンスはそれこそ人によって異なるものであるし、その人の生活に即しているか否かで相当実感の度合いは変わることが予想される。生活・環境を共にする者が「意味」を多く共有することは確かだが、完璧ということはありえない。物語は共有できるかもしれないが意味の共有は難しい。
  10. しかし共有ではなくて伝達ならばどうか。伝達である限りそこにはなんらかの手段が必要とされる(テレパシーや憑依は除く)。それは言葉でも音でも図でも生暖かさでも苦さでも何でも構わないが、そうした手段を通して相手が受け取るものが自分の意図したものだと同じだという保証は何も無い。これは日常でもありふれており、たとえば気持ちをうまく表現する言葉が見当たらない、あるいは相手の言葉をうまく受け取れない時、我々は正にこの事態に直面している。結局、相手がこう受け取るだろうと予測して伝達手段を運用する外なく、それがある意味では時空の制約であり、ある意味では話し上手を生む。
  11. 結論。佐々木氏の「デジタルに転写された人生は、イコール自分となるのか?」という問いには「転写できる限りでそうだ」というあたりまえの答えになる。転写したい人は、あらゆる技術を用い満足するまで転写せよ。:-) 私はそれにローカルもグローバルも無いと考える。
  12. え、子ども?それって転写じゃないし…ごにょごにょ。
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1 Response to “自らをデジタルに転写できるかという問いについて”

    4Avatars v0.3.1 v0.3.1
  1. shin’
    7 月 12th, 2007 01:09

    ふと思い出しました.
    Caenorhabditis elegansという線虫をご存知ですか?
    本業は生物ではないので,あまり詳しくは知りませんが,一番最初にゲノム配列を解読されたことで有名な多細胞動物です.
    この成虫の体細胞は1000個程度のため,どの細胞がどんな役割をし,どのように連結され,どのようにアポトーシスするかなども解明されているわけですが…,ここで問題.
    それらゲノム情報,細胞情報をPC上でモデル化することができたら(仮にそれを“Programmed C. elegans”と呼びましょう),それはイノチでしょうか?
    仮定) Programmed C. elegansは外環境に対する反応も忠実に再現されていた,すなわちC. elegansに及びうる外環境もモデル化することができたと仮定して.もしくは外環境のモデル化が完璧ではなかったが,Real C. elegansと同じ反応を示した.

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