フューチャリスト宣言
2007/06/11 (月) 23:29カテゴリー: web, 本
読了。PCにメモを取りながら読んだので時間がかかったが、いくつか刺激的な見解があって面白かった。概要を紹介するのではなく私にとって面白かった点に関して記しておきたい。なお他のブログなどでも多数取り上げられているがそれらを踏まえてはいないので重複が多いかもしれない。
対談を通して多くのところで意見が一致している二人だが、p.83から始まるネットとユーザーの接し方に関しては見解が分かれている。梅田(id:umedamochio)がこれまで世の中に対して意見を表現できる手段がなかった人々がブログという手段を獲得したことをともかくも喜ばしいことと強調する一方、茂木(http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/)は書き手が力を入れ書き手にとって本当に大切なことを書いてもネットにとってはわずか一つのエントリ・記事であり、書き手がこめた想いの如何に関わらずそれは読み手たちに消費されてしまうものに過ぎないという想いを吐露し、そこになにほどか虚しさがあるという。これは茂木のように知名度の高いブロガーよりも誰も見ていないようなブロガーのほうが良く感じていることだろうし、これまでのリアル世界なら作家の卵たちが感じてきたことかもしれない*1。
これはさしあたり書き手のモチベーションの問題であるし「誰に向かって書いているのか」という個人的スタンスの問題でもある*2。だがここに茂木独自の倫理観が加わると話は微妙になってくる。茂木はSNSに対して拒否感を抱いているが、それは折角開かれたブログが手に入り、検索で訪れる見知らぬ人との出会いやコメント・トラックバックで良い影響を及ぼし合うことが可能になったのに、なぜわざわざ閉じた空間で馴れ合う振る舞いをするのかということが理解できないためであり(p.88ff.)、梅田はそれを承けて茂木にとってSNSは「ヌルい」と言い換える(p.144)。むろん書いたものへの反応は毀誉褒貶ありうるし、開かれた結果書き手は現在のマスメディアの被保護的状況よりも厳しいいわば公人の立場に近いものになる(p.143f.)。
だが自分はそうした厳しい立場にあるという自覚がある者と、ネガティブなコメントを受けても踏みとどまれる勇気がある者は良いが、現状ネットユーザーのすべてがそうした者では必ずしもないだろう。次のエピソードが大変印象的なので引用する。
本当に大事なことは書くなっていう言葉を聞くたびに思い出すのが、「学校には大事なものを持ってきちゃいけません」っていうルール。たしか小学校のとき教わったと思う。
夏休みの工作作品って、ロッカーの上とかにずらっと並べられるでしょ。あるとき、その中にクラスの女の子が夏休みに作った手芸作品のクッション(すごくきれいに刺繍が入ったやつ)が飾られていたのだけど、飾られたその日の午後のうちに、クラス男子のサンドバッグ代わりにされてボコボコになってたのを思い出す。
仕方ない話ですよね。だって小学生だし。それにきれいさ大事さ美しさなんてわからなければ何の価値もないよね。それに公共の空間なんだから誰がさわるか、けなすか、またボコボコにするかもわからない。なにしろ「学校には大事なものを持ってきちゃいけない」んだからもって来たならそれくらい覚悟しろって話。そうですよね、ここは公共の空間なんですから、なにが起こるかわからないわけ。それが常識お互いフェアで民主的でしょ。むしろそれが証明されるためにボコボコにされてもいいくらいである。ルールは明示されるべきである。
「学校には大事なものを持ってきちゃいけません」 (強調は原文)
したがって、ブログを書くということはそうした種類のリスクが伴うことがもっと認識されるべきなのではないか*3。実名ブログの場合には社会的なリスクが加わるが、匿名の場合でも個人的な衝撃としてはあまり変わらないだろう。だがそのリスクを引いてもまだ見ぬ可能性のほうに賭けられるかどうかがネットに触れる者に問われているのかもしれない。梅田はこの流れで「ブログを書くのは、修業みたいな感じですよね」と言っているが(p.144)、むしろ「修行」のほうが適切だろう*4。
上記のような茂木の倫理的な態度に対し梅田はもっと寛容であり幅広い可能性を許容する。梅田もSNSは未だにWeb1.0に留まっていると言うが、他方でSNSから実名ブログまでネットと個人とのかかわりは様々であってよいし、その活動をビジネスと結びつけたりそうでなかったり、プレゼンスへの志向性の有無も含め、いろいろな付き合い方があってよいと梅田は言う(p.89)。擬人化して言うならば、この自らへの関わり方の多様性を許す方針はネット自身にとっては結果として好都合なのではないだろうか。SNSから結果として少しづつオープンな空間に流れ出すものもあるかもしれないし、とりあえず書き手・自分と付き合う人を増やすことが梅田の言う「もう一つの地球」へと進む一歩であることは間違いない。そしてそのテクノロジーはいまや、とめどない走りを始めたに過ぎないのかもしれない*5。と同時にこのように考えるならばSNS内でGoogle的な「全文検索結果の公開」は技術上可能でも存在しえないことがわかる。内部的にはキーワード統計を取っているが、それを公にはしない。文章検索から人がつながってはまずいのだ(mixiも未だブログではなく「日記」である)。*6
ところでp.130で梅田が指摘している「引きこもりのほうが生産性が高いということはありえるし、まわりが学校行っている間にどんどんすごいものを作り出す」という意見はまさにコロンブスの卵。引きこもりの方が楽しい人、創造的になれる人はいくらでもいるはずだ。ただし日本ではそうしたイメージはごくごく薄いし、引きこもり=絶対悪のイメージが当事者を苦しめてしまうことになっている。この固定観念は相対化する必要があると思うし、バランスの問題がある*7。
最後の「おわりに」は梅田が茂木を評した文だが、その中に「同時代の権威に認められるからという理由だけで何かをしても、未来から見て全くナンセンスなことに時間を費やし一生を終えるリスクを負っている、ということ」という表現があった(p.207)。この未来から見たリスクという考え方はそのまま、茂木が未だ名前のないものを考え続けることの大事さを説いていたことへの応答である。茂木がネットを通してイメージしているものは明治の「ハイカラ」、つまり西洋と日本が交錯することでどちらにもなかったものが生まれてくる事態だが(p.139)、松岡正剛の言葉を借りれば「たらこスパゲッティ」ということになるのだろう。いやいや、地殻の変動を感じさせる楽しい時代に入ってきたと思わせられる本だった。
以下はエピソード的なものへの感想。
- p.46f.のゴードン・ベルの逸話は素晴らしい。詳しくは読んでいただきたいが、技術的な問題でいくらか時間がかかろうとも、情報が次々に自由になり続ける姿を象徴している。
- 梅田はシリコンバレーと日本を往復しながら、ネットで済ませられるものはなるべくネットで効率的に済ます生活を実験しているとのこと。その根には「実際に顔を向き合わせて話すことが大事」というお題目を疑うことができる懐疑の精神がある(p.58)。これは彼の母校の創立者福澤諭吉の幼少時の逸話、お稲荷様の石を置き換えてみるという実験を連想させる*8。
*1:なお梅田は茂木の言う虚しさに対し、そうしたいわばネットへ回収される事態を認めながらも、自分がどんどん書き続けることでその回収を通じて検索というネットの本質(具体的にはGoogleからの検索結果)をより良くしていくという志向を表明している(p.87f.)。
*2:cf. 「虚空に向かって書くからこそ丁寧に書く」
*3:私は幸いにして大学というリアルの生活を通してそうした態度―一種の学的態度―をいくばくか身につけることができたが。
*4:ただし、茂木はブログについたコメントに対してコメントを返さない方針を貫いているという(p.92)。このことと開かれ、彼の言葉で言えば「偶有性」への欲求が彼の中でどう関係しているのかよく分からない。本文ではそのことがポジティブなもの、創造的なものへの方向性として述べられているが。
*5:cf. id:essa氏の洞察、アンカテ(Uncategorizable Blog) - Gマシーンの目覚め。
*6:事実誤認のため削除します。[2007/8/1]
*7:たとえば学校に行かずにひたすらピアノを弾き続けて大演奏家になる場合はどうか。これが称賛されるなら一部の熱狂的ギークも称賛されるべきではないのか。引きこもりに創造性が皆無というイメージをどう捉えるか。
*8:慶應義塾のサイトにあるので本当の話なのだろう。 「封建の世に記した先覚者としての第一歩 ~福澤諭吉の幼少期をたどる~」





