日曜・月曜
2007/06/06 (水) 14:30カテゴリー: 日々
昨日まで少し忙しかった。日曜(6/3)と月曜(6/4)はそれぞれ別の人と会って話したのでメモしておく。どうでもいいけど日曜の次って月曜なんだよな。
日曜
日曜は学部時にサークルで一緒で、この4月から働き始めた人。向こうから用事がらみで誘われたのだが、人から誘われるのは珍しいのでほいほいと二つ返事で出かける。(笑) 会ってみると私の持っていたイメージから変わったような変わらないような感じ。彼は文科省の関連団体に勤めているので自然と話が教育・大学行政の方向に行く。特に理科系の研究について、トップクラスの大学に重点的に支援するのは国際競争・成果主義上自然な選択ではあるのだが、他方あまり注目されない地方大学から良い研究あるいはその芽が出てくる可能性は十分にあるので、それにも配慮する必要があるとのことだった。ただ教員・学部生・院生の心性からするといわゆる旧帝・私立上位に行きたがる傾向が現にあるし、関東/非関東、理系/文系でもだいぶ状況は変わってくるだろう。
彼は地方大学の独自性、つまり旧帝など「上位」校のマネをして劣化コピーとなるのではなく、「ある分野・ある教授なら世界クラス」というような仕方で個性が出てくるような時代を考えているようだった。それについては賛否あるだろう。世界クラスになるためには研究設備やら海外学会やらでなにかと入り用なものだがその費用すらまともにもらえなかったり、上で書いたような教員・学生の心性も彼らを地方に留まりづらくさせている。「底辺」校と言われるような大学では専門の研究はおろか学生に基礎的な講義をすることにさえ苦痛を感じる教員もいるはずだ。さらに一都道府県一国立大学の原則に則ったような地方の大学は、地元に就職していく人材を出すという重要な役割も担っているという面も問題を複雑にしているのかもしれない。ただ中央ばかりを支援していたのでは他の大学のモチベーションが下がってしまうことも確実だろう。
というか、大学院重点化って結局なん(だったの)だろう。もともとは研究力向上という狙いだったのだろうが、「就職難で「博士離れ」か 博士課程の定員、初めて減少」という朝日のニュースや(ただし調査対象は国立大のみ)、「「放っておいたら大変」 大学非常勤講師の惨状」というJANJANの記事は目に入ってきても、飛躍的に成果が出たという話は聞かない。まあ単に私が知らないだけかもしれないが、とりあえず特許申請数でも増えれば成果が出たことになるのだろうか(とりあえず文科系は無視)。百歩譲って成果は見えにくいとしても、重点化の結果誕生した多くの大学院生たちはその後も研究を続けているのだろうか。
ほか、一部のネットや本でのマスメディア批判の安直さ・軽薄さ、彼が北朝鮮のマスゲームに感じる美しさと私がそのことに感じる違和感、一部の宗教的なものと日本でそれを語ることの難しさ、ハウス・テクノ音楽とヒスパニック・ゲイ、J.S.バッハの全集を流してもいつまで経っても終わらないことなどを話した。途中二人で本屋(ジュンク堂池袋本店)に寄ったらいくつか面白い本を発見。佐藤優がセレクトしたコーナーがあったり、知り合いの週刊誌記者が書いた署名記事を探したり。松岡正剛『千夜千冊』の見本があったが、やはりこれはウェブで読むから良いという面もあるのではないかと彼が言い、なるほどそれもそうだなと思った*1。
月曜
月曜は学科の知人と大学近くで食べた。私が比較的興味関心がバラバラな方向でどれも中途半端な状態になっているのに対して、彼は一つのことを深く詰めていくタイプ。とは言ってもタコツボ的な状況に満足する人ではない*2。私が最近アルバイトの関係で読んだオタク論をダシに「戯れ」とか「言説(勿論ルビは「ディスクール」!)」とかに二人でウンザリする*3。
ウンザリしていても仕方がないのでなぜか話は文章や芸術についての方向に進む。文章を情報伝達のメディアとして捉えるか、「文芸」と呼ばれるように一種のエンターテイメントとして捉えるかとか、現代美術と二次元の萌え絵・あるいは成年向けマンガの違いなどを話す。文章についてはむろん後者として捉える人が非常に多くそのことが小説の市場を形成しているわけだが、私が比較的小説を読まないのにもまして彼は小説にまったく面白みを見出さないという。絵に関しては、絵そのものとそれを「見る」人とが芸術的知識やら描いた人の人生やらの絵以外の情報を抜きにして直接的に関係する状況を彼は理想としているようだった。逆にそうした知識無しに「見る」ことができない絵は二流だと。まあ同時に美大生に代表される絵の描き手(の卵)が絵の作法と「芸術家像」を意識しすぎていて、個性的であろうとするあまりに同業者間での差異にばかり注目してしまっているという状況もあるのだろうけれど。今の時代に「現代美術」を続けるのは相当大変だと思いますよ。そのことが賞賛に値するかどうかも含めて、いろいろな意味で。
だが「見る」という行為も往々にして文化的コードに制約されている中、真に個性的であるものはしばしば評価されないのも事実。というか真に個性的であるものは評価されようが無いというのが真実だろう。今までの尺度を木端微塵に叩き壊すものがそういうものなのだろうが、今までの尺度を学んだ上でさらにそうしたことを狙いながら達成できるのはごくごく僅かな人たちなのだろう*4。もちろん狙わずに/目立たずにコードの変化が起きるという可能性も私は否定しない。
ほか、楽器をやっていると自らの下手さが分かるだけにかえって演奏・練習しにくくなるとかの話題が出た。
*1:思い出したので追加。大学の経営難・統合が話題になっているが、実利がない代わりに金もかからない文学部に対し、天文・素粒子系は実利がないのに金がかかるのだが、前者は日本ではアマチュアからの寄付などが相当ありそれで賄っているのに対し(名古屋大の「なんてん」などが好例)、後者は中々難しいとのこと。世界規模で共同研究とかになるのだろうか。石原慎太郎が東京オリンピック誘致に成功した場合は安藤忠雄が基本デザインを担当するというニュースに彼は失望したそうだ。安藤氏にはもっと反権威的であってほしいとのこと。また茂木健一郎氏が世間にもたらす「学者」のイメージと当の学者たちの関係も話題に上った。彼が学者の存在をアピールする点では私は好意的に見ているが(というか彼の言論やTV番組をまともに追っているわけではないが)、彼の像はアピールされる学者たちの実像からは大きく隔たるものではないかという話だった。[6/8]
*2:閉鎖的状況の比喩としての「タコツボ(化)」という表現は丸山眞男の語法の影響が大きいと思うのだけど、オリジナリティも彼にあるのだろうか。『日本の思想』で出した対義語の「ササラ」は生き残らなかったか。
*3:finalventさんの最近のエントリ「ネットの言論はクズ」も関連するかも。あとyskszkさんの「だいがくいんのきょうふ」とか。
*4:このへん、作り手側の立場から論じたNaokiTakahashiさんの「知的鑑賞は感情的消費よりエラいのか。叙事は叙情よりエラいのか。」を参照。とくに「むしろ、知的批評的社会的なテーマなんてもののほうが、知的な興味を持たせて話に引き込むためのフックなのだ。その意味で完全に優先順位が逆転している。」は名言。




