『愛する勇気が湧いてくる本』
2007/05/19 (土) 18:08カテゴリー: 本
『愛する勇気が湧いてくる本 (祥伝社黄金文庫)』は遠藤周作の数あるエッセイ集のアンソロジーで、既刊の諸々のエッセイ集をさらに抜粋して集めたもの。つけられたタイトルがものすごいので紹介するのも若干気が引けるのだが、某所で薦められてから時折寝る前に少しづつ読んでいて読了したので記録しておく。タイトルとは裏腹に読むと急に元気になったり翌日から家庭円満になる本ではないが、人生・結婚と夫婦などについての静かな語りの中に全体として彼のユーモアのセンスが感じられる本である(死ぬ前の最後の一言を何にするか、などは傑作)。彼も彼の妻もカトリックの信者だったが、妻との間に彼が書いた小説はけして読まないようにするという約束をしていたそうだ。賢明というべきだろうか。
心に残った言葉をいくつか記しておこうと思う*1。
一人の女を愛して生涯、彼女との約束を守るというのはまことに困難である。それは孤独な高い山に登るのによく似ている。なぜなら、女性というのはいつまでも情熱の対象になるだけの魅力や美しさを持っていないからだ。はじめは美点にみえたものが、やがては鼻につく短所と変り、初めは美しく思えたものも、やがて色あせ、みにくくなる。
しかし美しいもの、魅力あるものに心ひかれるのなら何の忍耐も努力もいらん。青春に自分がえらんだ娘が美しく魅力あるとき、それに惹きつけられるのは馬鹿でも阿呆でもできることなのだ。歳月がながれ彼女たちがやがて色あせ、その欠点や醜さを君に見せる時になっても、それをなお大事にすることは誰でもできることではない。そして愛とは(略)、美しいもの、魅力あるものに心ひかれることではないのである。外面的美しさが消え、魅力があせても、それを大事にすることなのだ。
「モテぬ男」とはおそらく、現代的風潮からみればこのような困難な馬鹿げた愛の行為をやる人間なのである。現代の安易さに妥協して「モテる男」になるか、それとも、そのようなふやけた精神を軽蔑して「モテぬ男」になるかは、私の眼には生きる姿勢という点から見ても、重大なちがいがあるように見える。
遠藤周作『愛情セミナー』集英社文庫 (同『愛する勇気が湧いてくる本』祥伝社 p.32f.)
愛とは選択や決意ではなく、持続だ。
遠藤周作『愛情セミナー』集英社文庫 (同『愛する勇気が湧いてくる本』祥伝社 p.34)
「モテ(へと努力す)る道」を選ぶかどうかという選択が恋愛至上主義/恋愛資本主義絡みでネットの一部で論争になっているようだが、遠藤周作はまた違った視点から、おそらく恋愛に恋/愛と切れ目を入れる視点から恋愛を説いていると言える。自分が一度選んだ異性の魅力があせても共に生涯の道を歩めるかという視点。DVなどの様々な現代の時勢からこの視点に、多分にカトリック的な視点に対して批判を加えることは簡単だ。しかしそれでも私はこの視点を心のどこかに留めておきたいと思う。その視点が欠ければ人生のある部分が瞬間の積み重ねになってしまう気がするからだ。
ところで巻末に附された加藤宗哉氏の手になる「解説」によれば、遠藤周作は自作の『わたしが・棄てた・女』の主人公の一人森田ミツを「私がもっとも好きな女性」と言い切ったとのことである。森田ミツはもともとそれほど美しい女性と設定されていたわけではない。しかし彼の言う意味での愛を自らの生涯でもって体現した女性だったのだろうと思う*2。もちろん作品中にベタベタな愛情表現、具体的な行動が詳細にあるわけではない。その意味では遠藤周作が文芸上の先輩に言われたという「読み上手は文章を削りに削ってもきちんと読み取るからできるだけ削れ」という趣旨の発言―余白、引き算という発想―もまさに含蓄に富む発言だと言える(これはこの『愛する勇気が湧いてくる本』に収められている)。
あと一つ、身にしみた一言を記録しておく。
教育というのは結局――他人からしてもらうことではない。自分が自分にすることである、ということを、戦後の我々は随分、忘れてきたのではないか。
遠藤周作『お茶を飲みながら』集英社文庫 (同『愛する勇気が湧いてくる本』祥伝社 p.131)
*1:なおこの本は三笠書房から単行本で出版されたとのことだが、ページづけは手持ちの祥伝社黄金文庫のものによる。はまぞう、なぜか三笠書房のものは画像があるのに文庫のものは画像がない。
*2:『わたしが・棄てた・女』のあらすじなどを書いた私の文章はd:id:gamma_ut:20070412#1176389853。




