独り言 (ちょっと毒入り)
2007/05/17 (木) 22:23カテゴリー: 未分類
たまには毒でも吐いてみるか。これから書くのは独り言なので、ブログで独り言を書くという矛盾に気づいたアナタ、これ以降読まないように。暇人が一人でいるとロクでもないことを考えるということの一例。とはいえそれほど素晴らしい毒でも美しい毒でもない。
今日はこんな声が聞こえてくる。
「おまえなんかいくらでも取り替えが効くんだ」
そうそう、これは人前で言ってはいけないことになっている。この言葉にある二人称はちょっと鋭すぎる。他人に言ってはいけないし私も自分にしか言わない。この言葉は私が先日書いた「私は世界に一人だけ」ということ*1とは矛盾しない。この地点から思考/思想は立ち上がるべきだ。あるいは「それを言っちゃあおしまいよ」というやつか。
しかしこう心の中で思っている人は社会の邪魔者である。こう思っていることを忘れることが肝心だし、ひょっとしたらそれを忘れるようにみんなで仕向けているのかもしれない。その一方で「自分語り」・自分の歴史を振り返って物語を作ることは時に自分の生涯に必然性を感じさせる。「みんなのおかげで今の私がいます」とかいう思考。それはある意味当たり前だ。なぜなら今の時点から振り返って事柄を取捨選択して物語を作っているから。しばしば歴史は物語である。だが社会の一員としてみれば自分はそれこそ単なる歯車である(いい比喩…)。いかに有能な歯車を目指しても*2、壊れたら替わりを入れれば良いだけ。特異な能力を持つ人以外は大概そうなのではないか。少なくとも私はそうだ*3。
こうしたことを忘れようとするのでなければその人は哲学者で居続けなければならない。永遠の子ども(そうそう、大人気ないですよ)。だが、社会に殺されたソクラテスほどに活動的でない者(あるいはギリシャ人のように奴隷を使えない者)はいずれ砂漠に旅立つしかないだろう。
とはいえ私は自分を殺さない。それほどの活動性はない。しかし戯れ言であっても「死んじゃえばいいじゃん」と私に言った人たちを私が忘れることもない。ムネモシュネーの名にかけて。ただしそこにはひとつの感謝がある。
まあなんというか「星の銀貨」の話の変奏ですよ。ニーチェですよ。「友人達よ、友人などいないのだ」というアリストテレスの死に際の言葉であるらしい言葉を思い出す*4。
うむ、まあ、この面白くない考え、これは単に風邪で熱っぽい頭のせいだ。ジャンクな食生活のせいだな。缶コーヒーをもう一本飲むことにしよう。明日はもう少しいい日だろう。
*1:d:id:gamma_ut:20070514#1179153691
*2:社会の一員としてはしばしば目指したほうが良いが。
*3:少しこの段落曖昧。必然性/偶然性ということと個人/社会という観点が混在。[5/17]
*4:これ出典はどこなのだろう?ディオゲネス・ラエルティオス?




