大いなる空車
2007/04/22 (日) 18:48カテゴリー: 日々
一昨日から昨日にかけて電車ですこし遠出してきた。遠出の中身については詳しく書ける時が来たら書こうと思っている。おそらくそう遠い未来ではないだろう。
電車に乗っていたらガラスに止まっている羽虫が目についた。戸袋と言うのだろうか、ドアが開く時にドアが納まるスペースで飛んだり止まったりしている。なにかの拍子にそこに入ってしまったのだろう。
物理で「慣性」を説明する時にはよく電車の例が出る。慣性が働いているから、電車に乗っている人が進行方向と反対の壁に激突することはないというあれである。きっとこの羽虫にも慣性が働いているのだろう。そして慣性のままに電車の終点、羽虫にはどことも知れないところに運ばれていくのだろう。とすると、羽虫にとってこの電車、なんの意図もなく飛び込んでしまったこの電車とは何なのだろう。そんなことをぼんやり考えていたら森鴎外(鷗外)の「空車(むなぐるま)」を思い出した*1。鴎外は馬が引く「大いなる荷車」、大八車を大きくしたものを見ながらこう言う。
この車だっていつも空虚でないことは、言をまたない。わたくしは白山の通りで、この車が洋紙を※*2載(きんさい)して王子から来るのにあうことがある。しかしそういうときにはこの車はわたくしの目にとまらない。
わたくしはこの車が空車として行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。車はすでに大きい。そしてそれが空虚であるがゆえに、人をしていっそうその大きさを覚えしむる。この大きい車が大道せましと行く。これにつないである馬は骨格がたくましく、栄養がいい。それが車につながれたのを忘れたように、ゆるやかに行く。馬の口を取っている男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の霊ででもあるように、大股(おおまた)に行く。この男は左顧右眄(さこうべん)することをなさない。物にあって一歩をゆるくすることもなさず、一歩を急にすることをもなさない。旁若無人(ぼうじゃくぶじん)という語はこの男のために作られたかと疑われる。
この車にあえば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍(たいご)をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。この車の軌道を横たわるに会えば、電車の車掌といえども、車をとめて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。
そしてこの車は一の空車に過ぎぬのである。
わたくしはこの空車の行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。わたくしはこの空車が何物をかのせて行けばよいなどとは、かけても思わない。わたくしがこの空車とある物をのせた車とを比較して、優劣を論ぜようなどと思わぬこともまた言をまたない。たといそのある物がいかに貴き物であるにもせよ。
森鴎外 「空車」
鴎外はこの荷車が空虚であることに文学を見出した。それは悠然と、倦まず弛まず、速度を変えることなく進んでいく。なにものにも邪魔されることはないし、なにものも邪魔することはできない。私はこうした鴎外のシンボル、空車は時間の比喩に他ならないと感じる。何を載せるでもなく、ただただ自分のペースで進んでいく「大いなる荷車」。私はそうした空車に載っているのではないだろうか、そうして知らないうちにどことも知れないところへ運ばれていくのではないだろうか。羽虫にとって電車がそうであるように。
いや、そうではないのかもしれない。たしかに時間、そして世界は私の意思と関係なく進んでいくし、私がいなくなっても進み続けるだろうが、同時に私もなにほどか世界を変えることができるのではないか?
それはそうだろう。だがそう考えてもある怖ろしさは消えない。どことも知れないところへこれから運ばれることではなく、すでに運ばれてきてしまったことに気づくこと、そこではてしない孤独を感じること、そしてまるで自分が世界の余りもの、余計もののように感じること。これが本当に怖ろしい。そしてそのように感じてしまう人、嗅ぎ取ってしまう人は果たして心穏やかに暮らすことができるだろうか?どうもそうではないように思われてならない。いま世界はそれを物語っているのではないか。
自分を分かってくれる人がいないこと、わずかしか周りと共有できないこと。「自分を分かってほしい」などというのは行き過ぎれば暴力だが、理解者のない生がどれほど苦しいものか想像に難くない。永井均は哲学者の友情には必ず終わりが来るものだと言っていたが、それでも多くを共有できる生は幸福である。
ここで私にさらなる問いが突きつけられる。それはこうだ。これまでの人生で私が多少なりとも分かりあえた(と思った)人もいるし、不幸にしてそうでなかった人もいる。同時に私もまた理解してもらえた(と思った)幸福を感じた時もあるし、思いが伝わらない辛さを感じ、そこから人に苦しみを与えたこともある。逆に私がその人のことを理解できないことで辛さを与えてしまったこともあるかもしれない。その辛さがどういうものか、そもそもそんな辛さがあったのか、私に知ることはできない。相手を理解できないことが辛さを与えるのに、その辛さをどうして理解できるのか。
その辛さが私に向かってくれば、それはきっと一番「いいこと」だろう。「なぜお前は私を理解しないのか」「なぜお前はそんなに私を苦しめるのか」そこからやっと対話が始まるのかもしれない*3。しかしもしそうでなかったら?私に直接向かうのではなく、辛さが世界への呪詛へ向かうとしたら?ある日その呪詛が世界を一変させてしまうとしたら…?そのとき私はなにか責任を負うているのだろうか。私がその人の理解者たりえなかったこと、結果として私がその人を見捨てたこと、それは私の責任なのだろうか。いま空車は音も立てずにどこへ向かっているのか。
電車が目的地に着いた。終点である。私は乗り換えようとドアの前に立った。羽虫はどこに行ったのか、戸袋の中に見つけることはできなかった*4。
*1:鴎外の短いエッセイ。青空文庫のこちらで全文が読める。引用もここから転載した。
*2:のぎへん+「口」の中に「禾」。
*3:だが実際にはそんなことを言ってくる人は稀である。稀であるどころか、そんなことを言える人がいたらたぶんそこには一人の貴族がいることになる。そしてかつて私にもそういう人がいた。私はそのつながりを自分でぶち壊してしまった。 追記:違う。稀なのではなくて、単に私がその言葉、メッセージを取り逃しているだけかもしれない。[4/22]
*4:なお私が間接的に参考として念頭においているのはd:id:gordias:20070406:1175824830に端を発する倫理的な責任論をめぐる議論、特にd:id:gordias:20070409:1176086019 (「本当は、できるでしょう?」の原初的風景)である。さしあたりの議論の整理としてはd:id:antonian:20070417:1176804595が良いと思う。




