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暴力は何を殺すのか

2007/04/18 (水) 21:22
カテゴリー: 日々
kwout this!

 どうにも気が重い。重い課題である。しかしこれを書かずに他のエントリを投稿することも憚られるので少し書く。

 ヴァージニア工科大学と長崎、この二つの事件を暴力と人間という点から考えなければならない。かなり位相は違うにしても。避けられねばならぬのは、特にヴァージニアの事件において、容疑者に対して安易にレッテル貼りし自分(たち)を安全圏において終わりにすることだ。ある程度の再燃はあると思うが「嫌韓」あるいは「容疑者が日本人じゃなくてよかった」で終わりにするのは非常にまずい。ふだん街ですれ違う人、社会に追い詰められた人が凶行に走らないといったい誰が言えるのか。口には出さないまでも、容疑者たちに暗い共感を抱いている人が本当にいないと誰が言えるのか。

 警察・司法、あるいは軍隊もそれだけを取り出せば暴力と言えないこともない。しかしそれは普通は国・社会にとって正義である。それを支えているのは民主主義ならば民衆の総意である。ホロコースト、あるいは先日のモスクワでのデモ鎮圧も(制度上は)民衆の総意に支えられていたのであり、その意味ではまったく「正義」である。そうした「正義」はそれぞれ一つ一つの社会にはどうしても必要なものだろう。しかし今回の二つの事件はそうした正義、民衆の総意というよりももっと深いいわば良識のレベルで拒否されるものではないだろうか。それでも事件は現に起きた。なぜ起きたのか、人間を暴力に走らせたものは何か、そして自分自身の中にその暴力はないのか、考えなければならない。

 ところで民主主義を否定するものではないが、ふと民主主義が終わる日のことが頭をよぎった。ローマは消え、唐は消え、モンゴル帝国、古代エジプト王朝、あるいは徳川幕府、そしてソヴィエトロシアも、ドイツ第三帝国もない。みな消えてしまった。繁栄の感覚あふれる中、それらが消え去ることを誰が予感しただろうか?しかし(今回は不幸にしてそうではなかったが)死はしばしば後ろからなし崩し的にやってくる。一応民主主義は権力からの解放/権力の開放の成果であるが、これもいつか消え去る日が来るのだろうか。そしてその日は希望の日になるのだろうか。おそらくその日は希望である「ということになる」だろう。未来の歴史教科書で「2007年:このころ民主主義死ぬ」と書かれることを私は怖れている。

 雨の音が聞こえる。雨が降っている。奪われた可能性のこと、未来のことを思う。瞑目。

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