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『さびしさの授業』

2007/04/14 (土) 13:49
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kwout this!

さびしさの授業 (よりみちパン!セ)伏見憲明『さびしさの授業』読了。しかしそれにしてもこの理論社の「よりみちパン!セ」シリーズは突き抜けている*1。「ヤングアダルト新書」というト書きがまず出会う者を困惑させるが、ラインナップは白川静氏が監修で漢字の成り立ちを述べ、みうらじゅん氏が保健体育を、小熊英二氏が日本論を、リリー・フランキー氏がことば・文章論を語るという豪華モノ。さらに加えて重松清、しりあがり寿、田口ランディ、宮沢章夫、養老孟司各氏も名前を連ねているシリーズはそうお目にかかれないだろう。最近ではあの森達也氏が2回目の登場で『世界を信じるためのメソッド―ぼくらの時代のメディア・リテラシー (よりみちパン!セ)』を出しているし、ほかにも認知症と介護、女性からのモテ-非モテ、死生観、この社会で働くとはどういうことか、等等のテーマが「ヤングアダルト」(笑)向けに書かれている。そして『さびしさの授業』もそうだがタイトルづけのセンスもいい。頼まれもしないのに理論社を褒めてしまいたくなるくらいだ*2

 さてこの『さびしさの授業』だが、私の心にひっかかった点は、いじめられた体験を振り返って著者が読者に向けて「サバイバル」の前提を述べる箇所である。

 そう、「私」は絶対に世界とつながらなくてはならない。「私」は世界の一部として生きざるを得ないけれど、世界はけっして「私」の一部にはならない。これが真実です。

 そして「私」であることを、いかにしてこの世界の中に位置づけていくのかは、簡単なことのようで、とても難しいことなのです。なぜならば、世界が「私」を受け入れてくれるかどうかの保障はどこにもないのだから。

 [略]

 そんなわけで、私たちは、この世界になんとかして自分の「生きられる場」を作り出そうとするのです。またそれこそが「生きる」ということの「意味」にもなるのです。
  伏見憲明『さびしさの授業』(理論社、2004) p.26f.

 さしあたり筆者が「サバイバル」の方法として提示するのは想像力であり、なにがしか社会を変えていくきっかけになる力である。そこで筆者はモンゴメリーの『赤毛のアン』や映画の「X-メン」を引き合いに出しつつ、理解してもらえないことの孤独と同時にいじめられている者への「同情」がいかに的を外したものであるかを述べる*3

 しかしそれらは私にとってはあまり響かず、むしろ最後の章である「5時間目 『ふつう』であることのむずかしさ」のほうが面白かった。先に引用した前提を踏まえてのことだろうが、筆者は筆者自身の父親を例に出してくる。父親は小さな会社で重要な仕事を任されており、「お父さんがいなければ、会社なんてすぐに倒産してしまうよ」が口癖だったそうだ。それだけ自分自身の仕事に誇りとやりがいを持っていたのだろう。だがしかし、父親が57歳で癌に倒れても会社が倒産することはなかった。

人一人の力はたしかに大きいけれども、仮に誰かが抜けても、それを補い機能を回復していくのが組織というものの強さといっていい。

 ぼくは父と会社との関係を振り返り、「私」とこの世界との関係も同様のものだと思うのです。たとえ「私」がこの世界の中でどんなに大きな役割を負っていたとしても、世界は「私」がいなくなっても、なにごともなかったかのように回っていく。これまでどんな英雄が亡くなっても世界はなくならなかったし、どんな才能を失っても、それはそこにあり続けた。

 [略]

 つまり、「私」が世界の中に生きられる場所をすでに得ていたとしても、そこで生きる「私」は入れ換えることのできる存在にすぎないという、空しいけれど、まぎれもない事実がそこにあるのです。
  伏見憲明『さびしさの授業』(理論社、2004) p.123f.

 そうなると、毎日毎日が驚くべきことにあふれているわけでもなく、たわいもない「ふつう」の日常を送る世の大半の人々(もちろん私もそうだ)はどんどんとそういった「空しさ」にとらわれることになる。そこで必要とされるのはやはりその人を支える「物語」なのである*4。そうした物語は「ふつう」の人よりもマイノリティとされる人々のほうが紡ぎやすい。「ふつう」に耐えられなくなった人は時として(良かれ悪しかれ)名誉欲に、あるいは犯罪に、あるいはリストカットに走る。これは外的要因からの説明では捉えきれない事象だろう。筆者が引いている「千と千尋の神隠し」の例*5も、なにもない「ふつう」から離れてある目的を持った労働が人間を生き生きとさせるという趣旨である*6。そこはよくわかる。しかし同時に私は次の「あとがき」に反発してしまう。

 みんな他人には理解しえない孤独を生きています。だからこそ、切実に誰かを求めずにはいられない。そんな気持ちがわかるだけで、ぼくらはもっと他人にやさしくなれるし、互いを大切にしようと思えるようになります。
  伏見憲明『さびしさの授業』(理論社、2004) p.145f.

 なぜみんなが孤独を生きているとわかるのだろう?そういった「わかる」こそ筆者が忌まわしく呪った「同情」ではないのだろうか?他人を理解しようとする社会性を否定するものではないし、その重要性も同意するが、「他人のことが分かる」という言葉は否が応でも一種の傲慢の色合いを帯びてしまうのではないか。そこを踏まえない議論に私はどうしても反発してしまう。しかし同時にそうした傲慢さ、無神経さ無しにはやっていけないこともまた事実だ。私もおそらくそうだろう。私も誰かと誰かの尊厳を知らず知らずのうちに傷つけ踏みにじっているのだろう。筆者はあえてそうした事実を書かなかったようにも思われる。なぜか?それは、そこまで言えば授業ではなくなってしまうからではないか。私にはそう感じられる。

*1:理論社のシリーズページはこちら

*2:と書いたのだが、よく調べたら上で言及したものの中でリリー・フランキー氏のものと女性からのモテ-非モテを論じたものは予告のみで刊行されていない。手元の折り込みチラシを見て書いたので不正確になってしまった。しかし後者の『ワタシは一生、ブスのまま?』というタイトルはなかなかだと思うのだが…。[4/16]

*3:「同情」が的外れであるということについては重松清氏の『ナイフ』でも語られていた。こちら

*4:たぶん「虚構」の根本的な意味の一つがここにある。

*5:私は未見だが、筆者によれば銭婆が次のように語っているそうだ。面白い。「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで」

*6:H.アーレント風に言えば労働でも仕事でもなく活動ということになるか。

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