『わたしが・棄てた・女』
2007/04/12 (木) 23:57カテゴリー: 本
遠藤周作、1963年の作品。男と女、重い愛のテーマを切り出した作品で、個人的にもいろいろ思うところあって正直読後感は苦しい。私は昔『沈黙』『海と毒薬』を読んだくらいで遠藤周作のいい読者ではないのだが、この作品を読んで内面描写が透き通っているのに驚いた。以下ネタバレには注意を払わないのでその旨了解されたし。
舞台は1948年の東京。田舎から出て小さな工場で働く純朴な森田ミツと、彼女をただ体目当てで誘惑し・泣き落とす大学生の吉岡努。吉岡はミツと一度寝た後はミツに何の連絡も取らず、住んでいたアパートも離れて就職し、やがて社長の親族の女子社員(三浦マリ子)に近づき結婚する。吉岡の考えは以下の結婚式後の部分に集約されているだろう*1。
「旅行から戻ったら、会社の仕事も、精だしてやってくれよ。とにかく、あれでも……一族会社のつもりなんだから。」
社長のこの言葉のほうが、祝詞よりはるかに有難かった。祝詞よりもはるかに自分はマリ子の夫だ、という実感を与えてくれた。[略]
ぼくはマリ子を愛してなかったのではない。しかし、現代における愛情にはエゴイズムを、ぬきにして考えるのは不可能だ。エゴイズムという言葉がわるければ、それは幸福になる欲望と、いったっていい。ぼくが「うまく泳ぐ」ことは、とりもなおさずマリ子の将来の幸福のためでもある――そう考えて、どうしていけないのだろう。
遠藤周作『わたしが・棄てた・女』(講談社文庫) p.238f.
そんな吉岡に抱かれた―それも大学生だった吉岡にしてみれば、ただ金と女への欲求をいっとき満たしたに過ぎない―あと吉岡と連絡も取れず、心配でアパートに行けば彼が引っ越したという事実に愕然とし、それでもなお「大学生さんのように偉い人」(p.197)である彼を忘れることができないミツ。ミツはだんだんと身を持ち崩していくが、やがて彼女に訪れるのは無残にもハンセン病の宣告である。今では完治する病気であり偏見も少ないが、それまで聞いたこともなかった「ハンセン病」という言葉が、耳に入ってきた一言で「癩病」に、不治の病・差別と結びついた言葉に置き換えられたとき、彼女の目の前は真っ暗になる(p.166)。
はじめて森田ミツは他人の倖せを憎むという、暗い衝動を感じた。この新宿のすべての人たちが、自分と同じように不幸になればいい。腕をくんで、むつまじそうに歩いている恋人たちが自分のように泣くこともできず、この街を歩きまわるとよい。自分だけがなぜこんなに辛く、不幸でなければならないのか。
遠藤周作『わたしが・棄てた・女』(講談社文庫) p.173f.
一方吉岡は遊びに出かけた店でたまたまミツの話を聞き、自分が会社員として働いている今でもミツは自分のことを忘れていないことを知る。吉岡はまだ結婚前、マリ子とはいい仲だが迂闊に深入りすれば結婚まで漕ぎつけられぬ。そんな折の悶々とした欲望を満たすのにミツは格好の相手であった。しかしツテを辿って彼女に再会を求めても、自分の病名を知ってしまったミツは会いたがらない。それでも吉岡は無理に会うのだが、ミツの病名を聞いて示した反応は反射的に冷たいものになってしまった。
御殿場の隔離療養所に向かう途中、ミツはもう普通の人々が暮らす社会には帰ってこれないと悲愴な思いを抱く。自分の症状がまだ軽いだけに、重症患者の痛みや体が崩れていくことへの恐怖よりも、外部との断絶への苦しみは大きい。孤独の苦しみ。しかし療養所でミツを待っていたのは意外にも一種の連帯であった。療養所では二人部屋で同室の患者の過去を知り、入所から四日目にして初めてその他の患者との交流が起きる。そして療養所の世話をしている修道女は次のようにミツに語った。
「[略]みんなそれぞれちがった過去と生活をもっていたのよ。しかし今はみな同じ不幸と悲しみとで結ばれているわ。わかる?森田さん。」
「………」
「この病気は病気だから不幸じゃないのよ。この病気にかかった人は、ほかの病気の患者とちがって、今まで自分を愛してくれていた家族にも夫にも恋人にも、子供にも見捨てられ、独りぼっちになるから不幸なのよ。でも、不幸な人の間にはお互いが不幸という結びつきができるわ。みんなはここでたがいの苦しさと悲しみとを分けあっているの。[略]」*2
遠藤周作『わたしが・棄てた・女』(講談社文庫) p.207f.
「苦しみを分かち合う」というテーマは3年後に書かれた『沈黙』において宣教師ロドリゴが踏み絵をするシーンでキリストが語りかけてくるものでもあるし*3、この作品でも後になって修道女から語られる精神である(p.250f.)。だがこの作品の優れた点はさらに現代的なプロットが見られるところだろう。というのは、実はミツの診断が誤診だったと分かるのである。それを知ったミツは「病気でないことがこんなに素晴らしいものであると今まで彼女は知らなかった」「吉岡さんに、また会える」(p.217)という単純な喜びにとらわれる。ミツは昨日まで同じ仲間として励ましあっていた患者たちからの冷たい視線、憎しみに満ちた視線を感じながらも「(でも……もうこっちに関係したことじゃないわ)」(p.223)という感情を抱く。…いたって自然な感情であろう。
しかし心優しいミツは東京に帰る途中の御殿場の駅まで来て、一つの虚無感にとらわれるのだ。東京に帰っても知り合いなどいない。療養所に来る前の仕事場にはとても戻れない。
東京に行く汽車。しかし東京とあの雑木林の宿舎となにがちがうのだろう。人々は新宿でも川崎でもこの駅の中と同じように忙しく、つめたく、無関心にミツの横を通り過ぎていくだろう。
遠藤周作『わたしが・棄てた・女』(講談社文庫) p.230f.
そして彼女は踵を返し療養所へと戻っていく。彼女の愛がもっともよく果たされる場所はそこなのだ。
丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。
「マルコによる福音書」2.17
この後ミツは療養所で患者たちのために熱心に働く。それは修道女たちも目を瞠るほどのものであり、しかも憐憫や同情、神への信仰からのものではなく本当に「だれよりも幼児のように」(p.248)患者のために喜び、嘆くのである。
勘の良い人なら分かると思うが、この後ミツは事故で死ぬ。キリスト教風に言えばまさに「命を召された」ということだろう。意識不明の昏睡の中、ミツの口からこぼれた最後の言葉は「さいなら、吉岡さん」であった(p.253)*4。療養所に行くことを聞いてから後のことをなにも知らなかった吉岡は、これらがすべて終わってからようやく事情を知る。そして社長の一族となって生きている自分とミツの生き方があまりにも違いすぎたこと、体欲しさに寝た男のことを想いながらもその男に棄てられた女の気持ち、多くの人々の人生の交錯、それらに思いを馳せる。そのシーンでこの本は終わる。
男女と愛、生活と愛、救いと苦しみ、戻れない人生の交点を描いた作品と言えるだろう。ミツの純粋な生き様が読んでいてとにかく苦しい。この「純粋な生き様」に関しては同じ遠藤周作の「肉親再会」の一節を思い出す。以前たまたま読んだことがあったのでこちらに書いておいた。
『わたしが・棄てた・女』、しばらくは忘れることのできない小説になりそうだ。
*1:頁付けは講談社文庫版による。
*2:cf.「ルカによる福音書」7.36-7.50: あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
*3:『沈黙』のレビューに関してはトート号航海日誌さんのこちらのページを参照。『わたしが・棄てた・女』はこちら。
*4:これはミツが療養所に入るとき、療養所の目の前でもう普通の世界には戻れないと思い知らされて呟いた言葉「サイナラ、吉岡さん」(p.183)と表記が違うだけである。




