ひさしぶりに
2007/02/13 (火) 00:31カテゴリー: 考え事
人に振られたので少し考えてみた話題。メールしたのだが許可を得て修正後転載。しかし科哲の人から見るとゴミみたいな議論の気がする…というかノイズが多すぎる。哲学プロパーな議論ではないことをお断りしておこう。(笑) 尚お題は「客観的」「科学的」「論理的」「中立的」という語について考えるところを述べよ、というもの。
「客観的」「科学的」「論理的」「中立的」という単語を聞くと近代自然科学を想起する。そこでだけこれらが妙に強固にくっついたのだから。しかしこの中で科学が一番外せないのは「科学的」だろう。科学から「科学的」を取ったら科学自体が崩壊する。逆に言うと残り3つ(と実証主義or反証主義)が「科学的」の中身だろうか。
だが「論理的」は別に自然科学と原理的には結びつかない。いわゆる「論理学(あるいは数学)」的にやると自然科学がうまく行っているだけで、「論理的」というのは普通は「論理学的」ではなくて、「感情的」「人情味溢れる」なんかといった人間の語り方・説得の仕方にカテゴライズされる語なのでははないか。…論理的な説得にはなかなか注意が必要なこともある。
その意味では「中立的」も普通は自然科学の説明の語としては使わず、日和見だったり積極的に不参加だったりすることを指すわけだ。自然科学の説明としてはそれが中立的というのは理想だが、おそらく科学者の行為自体は中立的でもなんでもなく好奇心か利害心からのそれだろう。量子論では観察行為自体が結果を変えてしまうこともあると聞くし、そこでは科学者は中立的ではありえないのだろう。
ただ問題はある自然科学の体系自体が中立かどうかということで、それはその体系が自分の学問の範囲を決めてそこから出ていかない限りにおいて中立的なのではないか。たとえば物理学・化学が心理現象を語るのは中立的でもなんでもなく、物理学が一つの価値観/世界観として当初の範囲を突き破ったというだけだ。…しかしこれ以上の具体例を挙げることは私の手に余る。おそらく生物の分野では学問間に明確に境界線を引くことは難しいだろうが、物理学と神経学がどのような関係にあるのかまで私が述べることはできない。
残った「客観的」というのは一番の大物だ。広義には「誰が見ても同じ」と「いつ見ても同じ」という二つの意味があるだろう。しかし自然科学の面で言えば客観性は自然科学の体系の理想と見て良いだろう。科学者の行為自体は客観的でもなんでもないが、そこから得られる数値・法則は「客観的」なものとして要請され検討されるわけだ。
逆に言うと「客観的」なものになりえないものを自然科学が扱うことは逆立ちしたって無理だ。たとえば私があるとき感じる「腹減ったなあ」は一般化できないがゆえに自然科学が扱うことはできない。それを神経信号、前の摂食時間からの経過、そのとき摂取したカロリー・固形物体積、健康状況、あるいはまた経済状況、社会情勢、天候、果ては目・耳等で感覚した知覚等々から説明することはできるかもしれない。だから「次もこういう状況ならgamma_utはそう思うだろう」くらいまでは予測できるかもしれない。
しかしある時ある場所で感じた「腹減ったなあ」と別の時別の場所で感じた「腹減ったなあ」を「同じ現象だ」と言うことはできるのだろうか。確かにどっちも「腹減ったなあ」だから同じじゃないかとも言えるのだが、それは言葉が「同じ」を担保してるだけで(あるいは単に言葉が同じだけで)感覚自体としてはまったく同じものではない。大体「腹減ったなあ」が毎回同じなら毎日同じものを食べていても飽きないはずだ。
ここからわかるのは、自然科学は対象をある程度抽象化せざるを得ないということだ*1。あのリンゴとこのリンゴが同じというのも何か尺度を持たなければならないわけで、厳密になにもかも同じリンゴだったら二つのリンゴは実は一つでした、というオチになってしまう*2。「客観的」というのはやはりそうした何かの尺度、言い換えれば現象の削ぎ落とし・減色の上でだけ成り立つ概念ではないだろうか。
…無論論じ足りない点が多い(こう議論すると「主観的」の意味が蒸発しかねない。個人的には蒸発せざるを得ない、突き抜けられるべきだと思うが。)。あと各語の語源・日本に輸入された経緯とか掘り出すとなにか出てくるかもしれない。




