単なるメモ
2006/10/14 (土) 02:08カテゴリー: 日々
自分の言葉で語ること。しかし自分だけの言葉では語らないこと。話の羅列ではなく、主体の見える話が必要なのだそうだ。―確かに私は引用でできている。しかしどういう意味でそうなのか?またどこまでそう言えるのか?またそれを言えば何だってそうではないのか?(なにものにも歴史がある。現在に過去は刻み込まれているし、現在は過去の集積だ。)その意味での引用を剥ぎ取ることに意味を見出すことはできない。
ただ、それらを血肉化することには意味があるように思える。(これは具体的にはどういうことでありうるのだろうか?)しかし結局語り続けるその視点―あるいはその行動―だけが重要となるべきなのだろう。完全な観察者・蒐集者で居続ける事はできない。問題はその視点・行動を人に対して言葉とせざるを得ない時があるということだ。(ある意味でこれは幸福だ。友を持つものは幸いなるかな。殴り合える友はそう多くないのだ。)その時には、確かに怯えていてはいけないのかもしれない。必要以上の怯えは凶暴につながるのだし、ある意味では無礼だからだ。
だが、話を聞く人もその人の言葉でしか聞き取れないのではないだろうか。これに彼はどう答えるのか?…多分、その食い違いを恐れてはいけないのだろう。だがここには当てはめの暴力がある。他人を自分で測ること。いかんともしがたいのだろうか。それにそれは自分から語りださない時もいつだって行われているはずだ。幸か不幸か、これは愛と排反関係には無い。しかしこの暴力を受け入れないことにはまた相手も自分を殴ってはくれまい。
…と夜中に殴り書いてみたのです。悲しいかな聞いた端から言葉を忘れていくので形見にメモするのであります。要するに私がまだまだ子供だと言うことであります。
山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
噫、われひとゝ尋めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。「山のあなた」(カアル・ブッセ作。上田敏訳詩集『海潮音』所収)
独語。
Über den Bergen, weit zu wandern,
sagen die Leute, wohnt das Glück.
Ach, und ich ging, im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zurück,
Über den Bergen, weit, weit drüben,
sagen die Leute, wohnt das Glück.Über den Bergen, Karl Busse.




