完読本
2005/12/28 (水) 01:50カテゴリー: 本
酒井 潔『自我の哲学史』*1
途中まで書いたところでPCがフリーズしてしまったので簡単に。しばらく前に読了していたもの。
著者はまずDescartesからLevinasまでの西洋思想の流れにおける自我概念と、近代日本の三人(宮沢賢治、西田、漱石)における自我概念との差異を描き出す。その上で現代日本の癒しブーム*2に注目し、それが明治以降西洋化に曝されつづけた日本における西洋的な自我概念に対する軋みの表れであると考える。実際、我々が主体的に考量し判断しなければならない状況というのは日常的にそれほど多いものではないだろうと著者は言う。さらに、日本人には元来西洋的な自我概念はそぐわないものではなかったか、日本人に受け容れやすい自我の観念は西洋のそれとは少し異なるのではないか、と「癒し」の前提たる自我概念が覆される*3。しかしそのような現状においても、連続的な人格的自我の概念を否定し去ることは現実問題としては難しいのであるから、窮屈でもそれと折り合いをつけていくしかないと著者は訴えるのである。
帯にあるような「日本人に自我はいらない!」のような主張には与することはできないし、またKantやHusserlの自我論を狭く解釈しているようにも思われるが、それでも自我概念としてまず形式的なそれが考えられてきたという指摘には共感する。
以下メモ。
- 世界や自我はまず解釈されたものとして現れてくる。そういった世界や自我についての像・観念を欠くことはできない。[p. 9f.]
- realの語源realitas[ラ]は「(事象を)かくかくのものとして規定し得る」という意味である。[p. 10]
- Idee, Begriff, VorstellungはKant以前にはそれほど区別されなかった。idea>Vorstellungの訳はC. Wolffによる。[p. 23f.]
- empirische Apperzeptionの次元。いわば「後から」そのつど私に限定を加える意識、つまり「私は~だ」という次元。[p. 49]
- egoがres cogitansであること。Descartesにおいてこのことは反省的に知られるのではない。それはむしろあるcognitio interna[内的認識]に拠る。「それを、反省された知識に常に先行するような、かの内的な認識によって知れば全く十分なのである。この内的な認識は思惟や存在にかんして、あらゆる人間に生得的である」(AT. VII 422)。思惟は、いつでもその作用と同時に、作用についての意識に伴われている。[p. 51f.]
- しかしこのような超越論的といっても良い自我は反省的認識の対象になりうるものではない。反省的に認識される自我を肯定・否定する自我、世界の認識においてその超越論的制約として働くような自我がある。しかしこれ自体はその内容を言えるようなものではなく、したがって我々は「一つの絶えざる循環の中を回り続ける」という「不快さUnbequemlichkeit」を経験せざるを得ない。(KrV, A346/B404f.)しかしこのような自我は連続的・同一的・主体的であるにしても、個別性は存在する余地を全く欠いている。[p. 60ff.]
- 具体的内容を欠いた自我を直接認識することはできない、という点ではKantとHumeはまったく同じ主張をしているとみなすことができる。著者は自我を知覚の束とすることは、知覚を全く欠いた自我に我々は出会うことができないと規定することだとHumeを解釈している。[p. 65]
- Leibnizによる個体的概念の確保。普遍概念に付け加えるのではなく、最初から全てをまるごと持っているようなものとしての個体概念。[p. 76f.]
- Nietzcheの道徳告発と来るべきÜbermenschの道徳の論述。この意味で彼は新しい「道徳」を志向している。[p. 111f.]
- Heideggerの先駆的決意、Wiederholung、歴史性、現存在のErstreckungといった概念には既に世俗化・平板化に抗して決断する倫理的自我、己れの生の全体を眼下に納めつつ決断するという単独者的で自我中心的な自我が、紛れもなく前提されていると言える。[p. 137]
- 漱石の『こころ』では三つの道徳的段階が検討されていると言える。順に常識的道徳(日常的なルール)、道徳思想(厳格主義、自然主義、個人主義等)、自己の心に照らした時の「良心」という段階である。3番目の段階はKantのguter Willeに対応すると読める。それは他人にどう思われているかと言ったレベルを超えた段階である。[p. 190ff.]
- 偽マルタン・ゲール事件についてLeibnizも言及している。(Nouveaux Essais, III-3.)[p. 205.]
*2:私の周りではそのようなブームは実感できないのだが、それは単に私が鈍感なのか、本当にそのようなものは存在しないのか、それとももはやブームではなく定着してしまったのか、どれだろうか。
*3:加えて、人は日々向上を目指すべきだとする人間観にも、少し窮屈さを感じるのではないかと指摘する。連続的な努力を否定すること、「頑張らない」ことがなぜ非難されるのかという問いも立てている。そのような態度を批判する人間観は、現代においては資本主義的な社会システムによって固定化され強固にされている。人材育成というアイディア。


